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2010年4月

No.350 (Web版0号)9

「新村の決めつけジャーナル」 ・・ってのを連載しろって言われたんで、渋々そうします

でも、ぺったんぺったんつるぺったん・・ってTBS・・乙・・



ある日の例会で

平野「シャレードのDVDを借りたの」
私 「ヘプバーンがでてるやつだもん」
平野「そう」
私 「チャールズ・ブロンソンも出てるもん」
平野「知らない」
私 「出てるもん、絶対出てるもん、前に見たもんシャレード」
平野「ほんと?」
私 「ホントだもん間違いないもん」


翌週の例会
 
平野「チャールズ・ブロンソン出てなかったよ」
私 「そんなことないもん」
平野「主演はケーリー・グラントだよ」
私 「主役じゃないもん、敵役だもん悪役だもん」
平野「悪役はウォルター・マッソーだよ」
私 「悪役一人じゃないもん、いっぱいいるもん、いっぱいいる中の一人がブロンソンだもん」      
平野「ブロンソンいなかったよ、コバーンなら・・」
私 「スピークラークの人だもん!コバーンだもん!ジェームズ・コバーン出てたもん!」
平野「ブロンソンとコバーンじゃ違うじゃない」
私 「同じだもん、よく似てるもん。どっちだったか迷ってたもん」
平野「似てる?」
私 「似てるもん。そっくりだもん。ヒゲ剃ればどっちも同じ顔だもん」
私 「それはそれとして、ジェームズ・コバーンといえば、『戦場のはらわた』だもん」
平野「知らない」
私 「知らないのおかしいもん!映画の最高傑作だもん!」


次回は
私 「タランの友達の友達の友達の友達の友だちのともだちのトモダチはきっとぼくだもん!」
                                     つづく?

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No.350 (Web版0号)8

「ありがとう柴野拓美さん」

              by 渡辺ユリア 

 皆様、今日は。これから述べる文章は一SFファンとして述べるものです。柴野氏の事は “宇宙塵” を創り出した人、そしてSF大会を始めた人。そして幾つかのSF大会の実行委員長をつとめた方である事を知っていました。
 けれど会った事はありません。それでもSF大会(多分2004年か2005年)の星雲賞授賞式で遠くからお顔を拝見した事があります。背が高く格好の良い方だな、という印象でした。そして話し方は柔らかな感じで親しみのある感じでした。柴野さんの賞を受賞したサークルや人物名を読み上げられるお声は、優しい印象でした。そしてSFを楽しんでみえる印象はまるで “さあ、愉しいSFの時間です。SFを大いに愉しみましょう ”と言ってみえるような感じです。
 だからこそ柴野氏の訃報は、SFをこれから愉しんでいきたい人にとって大いに残念です。柴野さんのように大きな心を持ってSFを広めたい、と言ってくださる方がこれから一人でも多くなれば良い、と私は思っています。
 そして、柴野さん、ありがとうございます。

 おまけ
映画 “アバター” について。実は3Dではなく2Dでしかも吹き替え版で観ました。まず、最初のシーンが気に入りました。“空を飛んでいる夢を見た” というシーン。何か大きな鳥のような生物に乗って、空を飛んでいる。その場所はどこか知らないけれど、樹海がずっとずっと続いている処。導入って大切ですね。
 そしてアバターというのは、惑星パンドラの住民ではなく、その住民と人類の遺伝子を掛け合わせて創造した身体の事。
 そしてこの映画には多くのSFファンにとって心躍るシーンが多くあります。浮かぶ大きな岩山や大きな鳥(鳥ではなく翼竜かもしれません)をつかまえようとするシーン。そしてつかまえたそれに乗って空を飛ぶシーン。そのシーンは迫力があって爽快でした。また、パンドラの動物や植物の様相。特に大きな樹など。知らないうちに私はその惑星にいて、ジェイクと共に空を飛んでいましたね。
 では、この辺で。
                     2010年3月23日 






 

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No.350 (Web版0号)7

「柴野さん本当にありがとう」

 松島 恵

 私は柴野さんと浅倉さんのことは、お名前くらいしか存じ上げませんでした。
 先月号(No.349)で柴野さんの偉大さを知りました。SF大会、コスプレについて…etc…。
 先月号(No.349)を読ませて頂き、有形、無形に関わらず、柴野さんのSF愛の恩恵をいただいていたのだと知りました。
 最初の人がいなければ、何事も始まりません。柴野さんたちの御蔭で、わくわくした気持ちや、楽しさを提供してくれる。そして皆と一緒に楽しめる今のSFの大会(と日本SF)があったんだ、と思うと、「本当にありがとう」と思いました。

 浅倉さんもそうですよね。
 先月号を読ませていただいた御蔭で、遠い存在の方々ではなく、
 今の自分の生活に触れてらっしゃる方々だったんだと知ることが出来ました。有難うございました。

 浅倉さんの作品は、「たったひとつの冴えたやりかた」という、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア著の訳を持っています。表題作でもある本作のお話は、最後がとても切なく、読むのがつらくなってしまいました。
 本屋さんでひとめぼれした本でした。何かSFを読みたい…と探していた時に出会った本でした。(どこの本屋で買ったか、まで覚えています。)

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No.350 (Web版0号)6

「浅倉さんのこと」

 鎌田三平

 

 葬儀の朝が雪だなんてベタな演出だと、映画好きの浅倉さんなら辛辣なひと言で切り捨てただろうな。
 葬儀の帰り、赤尾秀子、酒井昭伸、白石朗、中村融、わたしというメンバーで横浜でお茶を飲んだ。
 中村融だか白石朗だかが「あっち側のほうが楽しそうだな」とぼそりと言ったのが妙に印象に残った。もちろん、矢野先生が主催していたSF翻訳勉強会の話で、その主要メンバーのほとんどが物故してしまったことになる。

 もう十年近くになるが、佐藤高子さんや、赤尾秀子、内田昌之、小和田和子、扶桑社の金子氏といったメンバーに声をかけて「A氏の会」をはじめた。もちろん、主賓は浅倉さん。浅倉さんをダシにみんなで食事・飲み会をしたいだけなんです、という表向きで、実はSF翻訳勉強会が自然消滅してからあまり表に出なくなった浅倉さんを、なんとか引っ張り出そうと考えたのだ。横浜中華街で楽しく食事をしながらにぎやかにおしゃべりして……それだけで後輩のわれわれには得るところが多かったし、励みにもなった。不定期で年に二、三回ずつ続けていった。浅倉さんのお話を聞くのは、若い人にも糧になるのではと考え、若い翻訳者や編集者を少しずつ呼んだりもした。
 二〇〇八年の十一月、浅倉さんからのメールで、検査でご自身が重篤な病に罹っていることが分かったと伝えられた。それ以降、おたがいの訳書が出た折などに何度かメールで連絡したりはした。ただ、お見舞いには伺わなかった。おいやだろうと思ったし、それだけの心の準備ができなかったこともある。予後五年というのが定説なので、なんとなく油断していたのかもしれない。

 例の「あっちの側のほうが……」という言葉で思ったのだが、あっち側の世界でもやはり矢野先生、深見さん、山高さん、黒丸さんといった面々でSF翻訳勉強会をやっていて、浅倉さんが到着すると、もうすっかりできあがった矢野先生が顔を真っ赤にして「おうおう、浅倉さん遅かったのう。待ちくたびれて、もう『デューン砂の惑星』全巻を改訳し終わっちゃったよ。まま、とにかく一杯」とグラスを差し出し、浅倉さんがちょっと肩をすぼめるようにしてとなりに座るのが目に見えるような気がする。『タイタンの妖女』のエンディングではないが、浅倉さんがそういう楽しい気持ちで逝かれたことを祈るばかりだ。
 東京創元社のS氏が書いていた、人生というジグソーパズルのピースがガサガサッと外れ落ちてしまった感じ、というのはよく分かる。
 人は生きて暮らしているから、日々にとは言わないまでも新しいピースが出てきて、それで世界が少しだけ広がることもある。知り合う人のひとりひとりがひとつのピースなら、わたしにとって大事なピースはまだまだ両手で抱えきれないほど沢山ある。でも、消えてしまったピースはかけがえのない、それはそれは大事なピースだったんだ。

 浅倉さん、雲の上の誰かさんはきっとあなたに微笑んでくれますよ。

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No.350 (Web版0号)5

「浅倉久志氏の逝去を悼む」

 川瀬 広保


 2月16日、朝日新聞の訃報欄に浅倉久志氏の名前を見つけて、愕然とした。
 つい先だっての柴野拓美氏の訃報に続いて、何ということだろう!
 東海SFの会とも昔から大きなつながりを持っていただいた。〈ルーナティック〉の創刊号から数号、浅倉久志訳の作品が載っている。
 書庫を探してみた。ルーナティックの創刊号が出てきた。そこではすでに、浅倉久志訳の「二十一世紀の夜明け」(ロバート・アバーナシイ)が出ている。この創刊号の後ろに、第一回アンケート発表が載っている。その浅倉さんのところを見ると、当時はまだ浜松市広沢町に住んでいたのだ。36歳とある。さらに見て行くと、すでに、氏の訳で「自由未来」が発売中とある。次に、2号を見ると、スペース・バー(お便り欄)に柴野拓美、野田宏一郎、筒井康隆らの名前が見え、タイム・パトロール(消息欄)には、浅倉久志長編翻訳第5作ポール・アンダースン「時の歩廊」が、同じく第6作ジャック・ヴァンス「大いなる惑星」が発表されたと出ている。4号は見当たらなくて、5号には「私のアンソロジー5」として、氏が登場している。そして、その号に翻訳家、浅倉久志氏、横浜転居のため、白柳さん宅で送別会と出ている。ついでに、その号に私の文が初めて登場している。いずれにしても、5号は昭和43年9月1日発行とあるから、もう42年も昔の懐かしい思い出だ。
 私にとって、浅倉久志さんはSF翻訳家のプロとして、あこがれの存在だった。
 その氏の横浜のお宅を訪問したことがある。まだ大学生だった時だ。そのころは、SFというジャンルは若かった。そのせいか、気安くファンもプロのところを訪ねたものだった。ずいぶん長い時間、おじゃました。自分の翻訳原稿を見ていただいたあと、食事までいただいて、帰宅した。それ以来、欠かさず年賀状もいただいてきた。
 2007年のワールドコン〈NIPPON 2007〉では、翻訳家のセミナーにも出席されていて、元気な姿を拝見した。終了後、久しぶりにお話しして、いっしょに写真にもおさまった。
「宇宙塵50周年記念パーテイ」でのあいさつの時も、お元気そうだった。まだまだご活躍されるものと思っていた。
 昨年の1月、自著を送ったところ、真っ先にお返事をいただいて、お元気そうに感じられた。
 今年の1月、いつもの年賀状の筆跡が違うのでちょっと、不審に思ったが、こんなに早く他界されるとは思っていなかった。まだ79歳だったという。
 浅倉さんは温厚で、とても謙虚な方だった。日本のSF翻訳界の巨人だった。私の書斎にはハヤカワ文庫や創元文庫などがたくさん並べてあるが、ちょっと手にしても必ずといっていいほど、そこには浅倉久志訳の本が出てくる。そうか、これも浅倉さんの訳だったのかということに気づく。
 いったいいつのことからだったろうかと、書斎を見てみると、ハヤカワSFシリーズで1965年に『重力の使命』が出ている。1967年には『時の歩廊』が出ている。昔、お宅を訪問した時、その『時の歩廊』をいただいた記憶がある。とにかく、300冊以上のSF等を訳された。翻訳出版は一貫して続いていた。コンベンションか何かで、お話しされていたのによると、「朝8時から、午後5時まで、いや最近は夜8時までビールを飲みながら仕事をしているよ」と自ら、おっしゃっていたように思いだす。デビューのころから、最近では2009年の『時の娘』『90億の神の御名』まで、翻訳書が出ない年はなかったように思う。その『90億の神の御名』には「夜明けの出会い」と「天の向こう側」が浅倉久志の新訳で出ている。特に、「天の向こう側」の中の「特別配達便」や「大きく息を吸って」などは、昔大学生だったころ、私自身がファンジンに拙い訳を載せたことがあるので、とりわけ楽しく、また懐かしい気持ちで読ませていただいた。
 浅倉さんのことについては、まだまだ簡単に言いつくせるものではない。
 柴野さんが日本SFを育てた「父」であるなら、浅倉さんはSF翻訳を多数残され、われわれに翻訳を通じて、SFの楽しさを教えてくれたSF翻訳の「巨人」であったことは間違いない。

 浅倉久志さん、たくさんの翻訳SFを読ませていただいて、ありがとうございました。実は、まだ、読んでないのもたくさんあるので、これからも楽しませていただきます。天国で柴野さんたちとSFについて、大いに語ってください。そして〈東海SFの会〉や〈ルーナティック〉〈PM〉も見守ってください。

 謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。

                         (2010年2月)

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No.350 (Web版0号)4

「柴野さん、そして浅倉さん」

 林 久之

 親しく言葉を交わしていただいた大先輩の訃報に、またも接することになった。ぼくをSF翻訳の世界に引き入れてくださった深見さんも矢野さんも山高さんもいなくなって、今度は柴野さんと浅倉さん。寂しい限りである。
 弔辞の定番に、個人との縁について「奇しくも」という形容をよく使う。さて何かなかっただろうかと記憶を探ってみると、一つ思い出した。
 はじめてお二人に会ったのは八〇年秋の「はまなこん」の会場だった。舘山寺の根本山荘に、せっかく地方イベントがあるのだから行ってみようというような動機で、翻訳勉強会のメンバーが大挙してゲスト参加することになったのだ。深見さんと柴野さんとの出会いは、まさに偶然としかいいようのない背景がいろいろあるのだが、『ルーナティック』『イスカーチェリ』をはじめ『中国科学幻想文学館』などに書いてきたので繰り返さない。ただ、浅倉さんのことはまだ書いてなかった。
 あのときの懇親会で、ぼくは偶然浅倉さんの目の前にすわることになった。初めてお会いするかたに言葉をかけるのは苦手なのだが、何か言わなくては失礼にあたる。大先輩を前に気後れしながらも何か当たりさわりのなさそうなことを話しかけたと記憶している。向こうも当たりさわりのない言葉を返してくださったのだが、実に物柔らかで腰の低いかただな、という印象だった。こちらは学者肌の気難しい人を連想していたのだが。
 その後、SF大会でお姿を見かけるたびに挨拶を交わしていた。いつも「はまなこん」のことを覚えていて気さくに言葉を返して下さっていた。そんなわけで特別に深い縁があったわけでもないのだが、「奇しくも」という言い方にあたるのは、二〇〇七年横浜のワールドコンのときのことである。
 中国の『科幻世界』のゲストを連れて打ち合わせのため控え室にいたぼくは、浅倉さんがぽつんとひとり椅子にかけているのに気づいて、いつものようにさりげなく挨拶を交わした。少しやつれたような印象だった。同じ日、むろん柴野さんにもお会いしている。大会に参加されたかたはご存知のとおり、このときはもう目がほとんど見えなかったということで、開会式の挨拶は袖から演台まで堂々と歩いて出られたけれども、そのあとの会場内の移動はずっと車椅子だった。多くのファンに囲まれていて、なかなか挨拶する隙がなく、ディーラーズルームに来られたときようやく言葉をかけることができたのだが、私だとわかったのかどうか、いささか心許なかった。
 あとで思い出してみると、お二人と顔を合わせたのは、この日が最後だった。はじめてお会いしたのも同じ日、最後に見たのも同じ日。「奇しくも」というには少々弱いが、偶然のご縁には違いないと、勝手に考えている。
 いま思えば、もう少しお二人のお話を伺うべきだったと思うのだが、故人の思い出とはみんなそうしたものであるらしい。近年ぼつぼつ入ってくる幼なじみの訃報に接しても、同じ感慨を抱く。告別式に参列した者どうしでも、みんな同じ感想を述べる。亡くなった人はみな一様に、生き残る者に何か物足りない思いを残して去り、その思いをぼくたちは「さびしい」と表現する。古語ではこれを「さうざうし」といった。言い方こそ少し変化していてもきっと同じ感情なのだろう。
 ともあれ、今後ともぼくはお二人に対する物足りない思いとともに、しばらくは生きることになろう。そして自分が亡くなるときも、誰かにそうした思いを残して去ることになるのだろう。

                            

                        二〇一〇・三・二四

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No.350 (Web版0号)3

「柴野さんのこと」

 鎌田三平

 葬儀の朝、電車が平塚駅に近づいたころに、聴いていたiPodから偶然ライオン・キングのCircle of Lifeが流れたときには不覚にもウルウルしてしまった。

 わたしが柴野さんとお会いしたのは編集者になってからだが、その前にもちょっと奇妙な縁があった。高校時代に友人から悪巧みの相談を受けたことがあった。友人が通っている定時制高校の数学の教師が、宇宙やSFの話をしはじめると授業そっちのけになっちゃうので、なにか質問するようなネタはないか、という相談だった。もちろん、その教師が柴野さん。ファン活動とは全く縁のなかったわたしだが、SFマガジンは創刊号からの読者だったから、柴野さんの名前は目にしたことがあった。で、「光年とパーセクとはどう違うのか?」とか「地球の中心が空洞になっていることがあり得るのか?」とか質問(悪知恵?)をいろいろと吹き込んだ覚えがある。
 後年、柴野さんと実際にお会いしたときにその話をすると、覚えていらして、笑っていたものだ。
 編集者時代は担当が違っていたのでお仕事をご一緒することはなかった。矢野先生の翻訳勉強会でお会いするくらいだった。
 その頃、ニーヴンの初の短編集を出すときに、今岡が帯の惹句で悩んでいたので「理科小説集」というアイディアを出したら、今岡には凄く受けた。柴野さんが来社されたときに今岡がその話をしたら、柴野さんは真剣に悩んでしまったので、ふたりで冗談ですから、冗談ですからと必死で言ったことがある。わたしはそういう下らないことを言う癖があって、横田氏の初めての長編を出版するときに「処女長編というのは当たり前すぎるから、童貞長編というのはどうだろう?」と言った。もちろん即座に却下されたが。
 編集者を辞めてから、柴野さんにお会いしたときに「柴野先生……」と話しかけたら、20歳以上も年下の若輩者に向かって「同業者なんだから、先生と呼ばないでください」とおっしゃられた。
 その前後だったが『デュマレスト・シリーズ』を酒井氏、大西氏、わたしの三人で翻訳するという企画を東京創元社からいただいた。酒井、大西両氏の翻訳は最初だけ柴野さんが目を通すというような話だったと記憶している。文体の統一を図るためにわたしの原稿に目を通された柴野さんが、とてもほめておられた、と編集者から聞いた。独立早々で仕事の目処も立たず、自信もなかったわたしはその言葉にとても励まされた。ほめて伸ばすという教師の基本テクニックだったのかもしれないが。

 葬儀というのは、死者のためというより、生きている者のための儀式だと思う。その人の死を心に刻みこむための。
 人の死というのは悲しいし、自分の〝想い〟の一部が記憶だけになってしまうことの辛さがあるなあ。顔を合わせることももちろん、こちらから電話したり、「恐縮ですが、拳銃のことでちょっと教えていただきたいことがあるんですが……」という電話を受けることもなくなって、これ以上広がることのない領域になってしまったんだなあ。

 月並みな言い方だが、柴野さんは宇宙に旅立ってしまったんだよ、きっと。

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No.350 (Web版0号)2

「柴野拓美先生を悼む」

 川瀬 広保

 2010年1月25日、いつものように、SFMを入手して、おもなページに目を通していました。編集後記から見はじめることも多いのですが、そこでふと手が止まりました。柴野拓美氏の訃報が書かれているではありませんか。
 一瞬、信じられない思いで、インターネットで確認すると、毎日新聞のニュースに1月16日、逝去と出ていました。ほかにも、いろいろな書き込みがありました。東京創元社のHPにも出ていました。私は、9日間、知りませんでした。朝日新聞を読んでいるのですが、訃報欄に載っていなかったのです。
 昨年の1月、『SFファン48年』をお送りしたところ、奥様の代筆で返事をいただいたり、つい先日のSFM50周年特別号にエッセイを寄稿されていたので、まさかという思いでした。
 柴野拓美先生との出会いは、白柳孝さんに教えられて、「宇宙塵」へ入会したころにさかのぼります。40年以上も前のことです。入会後、「宇宙塵」が毎月送られてきて、そのうち、こちらも翻訳作品を送るようになりました。明治大学SF研究会を創立して、ファンジン「テラ」を送ると、必ず「ファンジンレビュー」でコメントしてくれたので、それが私自身のファン活動の支えになりました。あのころは、みんなファンジンを作り、氏のところへ送っていました。最近の「宇宙塵」にアーカイヴが出ていますが、実に懐かしい思いです。
 とにかく、20歳以上も年下の一ファンにも、必ず、親切で丁寧な返事をくれて、育ててくれました。東海SFの会も、氏のお力添えで育ったと思います。創刊号には、柴野拓美先生の言葉が載っています。全国から集まるファンジンに目を通され、批評をし、コンベンションには労を惜しむことなく出かけられ、気さくに声をかけてくださいました。
 浜松市民会館で会合を開いたときには、確か、「イカルスの夏」が載った号を持参してくださいました。その後、「花咲く奇怪な蘭」も載せてくださいました。また、1980年に浜名湖畔で開かれたSF翻訳家勉強会にゲストとして参加され、今思っても、めったにない錚々たるメンバーがそろい、思い出多い時をわれわれは過ごしました。
 毎年、年賀状にも必ず、返事をくださいました。とにかく、律儀で筆まめで、後輩を育ててくれる方でした。日本SF界は「柴野拓美」で育ちました。日本のSFは、柴野と福島だと、誰かが言いましたが、まさしく生みの親であり、育ての親でもありました。こういう方がいらっしゃらなければ、われわれはSFの、SFファンダムの楽しさを知らずにいたでしょう。日本SFのまさによき「教師」という存在でした。
 横浜のみなとみらいで開かれた2007年のワールドコンで、久しぶりにお会いしました。会話も交わしました。宇宙塵50周年記念パーテイの終わりのスピーチは、目が悪いということを感じさせないほどに、頭脳明晰で理路整然とした、何年に何があったということをメモも見ないで、たしかな記憶に基づいてお話をされました。
 ああ、これならお元気で問題ないなと思っていました。昨年、『SFファン48年』をお送りしたところ、すぐにはがきで返事が来て、代筆でありながらも、ご健在ぶりを発揮していたように思ってましたから、今度の訃報には少なからず驚きを受けました。
 今でこそ、「宇宙塵」や「SFM」は50周年を過ぎ、SFという言葉は誰でも口にするようになりましたが、かつてはSFなどほとんど知られることのない時代があったのです。今日のSFの隆盛は柴野先生のご尽力が大きいのはいうまでもありません。かつてだれが日本でワールドコンが開かれることになると思ったでしょうか。だれがこれだけSFが浸透した世界になろうと想像したでしょうか。最近やっと出た福島正美の文庫版『未踏の時代』に書かれているSFM創立時の福島氏の奮闘同様、柴野拓美先生の『宇宙塵』創設時またそれ以後の長年にわたるご努力、ご功績は、私などがここで簡単に書くことができるものではありません。
 多くの人々に影響を与えられる人物というのは、この世にそんなにいるものではありません。「『宇宙塵』が私の人生とともにあり、それに大きく影響されました」というようなことを、はがきに書いたら、そのお返事の文面の中で、「そういってくださる方がほかにもたくさんいるのはうれしいことです」とありました。

 柴野拓美先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。安らかにお休みください。そして、これからも日本や世界のSFを、そしてSFファンダムを見守ってください。

 合掌

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No.350 (Web版0号)1

「TAKUMI SHIBANOは我々を置き去りにして逝ってしまった」

 中嶋康年

このいささかショッキングな題は、スペインのSFサイト「BEM online」

http://www.bemonline.com/portal/index.php/noticias-mainmenu-2/1115-nos-deja-takumi-shibano

に載ったものです。記事自体はアメリカのLOCUS

http://www.locusmag.com/News/2010/01/takumi-shibano-1926-2010.html

からの翻訳ですが、この題は「BEM online」が独自につけたものです。この大きな取り上げように驚いて、コメントをつけたら、追悼文を書いてくれとの依頼がありましたので、取り急ぎ短文をしたためました。私が柴野さんと初めて会った「SFクリスマス」から、全国の地方コンベンションによく参加して、ファンとの交流を大切にしていたこと、スペインの絡みから言えば、柴野さんが通信員を務めていたスペインのSF雑誌「ヌエバ・ディメンシオン」を送っていただいたものなどを書きつづったもので、昔の写真をひっくり返して見つけた「SF文化の日」の様子と一緒に、掲載されました。英語圏だけではなく、このようにスペイン語圏にまで大きく取り上げられた柴野さんは、確実に「世界のSHIBANO」であったのです。ご冥福をお祈りします。

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