No.350 (Web版0号)2
「柴野拓美先生を悼む」
川瀬 広保
2010年1月25日、いつものように、SFMを入手して、おもなページに目を通していました。編集後記から見はじめることも多いのですが、そこでふと手が止まりました。柴野拓美氏の訃報が書かれているではありませんか。
一瞬、信じられない思いで、インターネットで確認すると、毎日新聞のニュースに1月16日、逝去と出ていました。ほかにも、いろいろな書き込みがありました。東京創元社のHPにも出ていました。私は、9日間、知りませんでした。朝日新聞を読んでいるのですが、訃報欄に載っていなかったのです。
昨年の1月、『SFファン48年』をお送りしたところ、奥様の代筆で返事をいただいたり、つい先日のSFM50周年特別号にエッセイを寄稿されていたので、まさかという思いでした。
柴野拓美先生との出会いは、白柳孝さんに教えられて、「宇宙塵」へ入会したころにさかのぼります。40年以上も前のことです。入会後、「宇宙塵」が毎月送られてきて、そのうち、こちらも翻訳作品を送るようになりました。明治大学SF研究会を創立して、ファンジン「テラ」を送ると、必ず「ファンジンレビュー」でコメントしてくれたので、それが私自身のファン活動の支えになりました。あのころは、みんなファンジンを作り、氏のところへ送っていました。最近の「宇宙塵」にアーカイヴが出ていますが、実に懐かしい思いです。
とにかく、20歳以上も年下の一ファンにも、必ず、親切で丁寧な返事をくれて、育ててくれました。東海SFの会も、氏のお力添えで育ったと思います。創刊号には、柴野拓美先生の言葉が載っています。全国から集まるファンジンに目を通され、批評をし、コンベンションには労を惜しむことなく出かけられ、気さくに声をかけてくださいました。
浜松市民会館で会合を開いたときには、確か、「イカルスの夏」が載った号を持参してくださいました。その後、「花咲く奇怪な蘭」も載せてくださいました。また、1980年に浜名湖畔で開かれたSF翻訳家勉強会にゲストとして参加され、今思っても、めったにない錚々たるメンバーがそろい、思い出多い時をわれわれは過ごしました。
毎年、年賀状にも必ず、返事をくださいました。とにかく、律儀で筆まめで、後輩を育ててくれる方でした。日本SF界は「柴野拓美」で育ちました。日本のSFは、柴野と福島だと、誰かが言いましたが、まさしく生みの親であり、育ての親でもありました。こういう方がいらっしゃらなければ、われわれはSFの、SFファンダムの楽しさを知らずにいたでしょう。日本SFのまさによき「教師」という存在でした。
横浜のみなとみらいで開かれた2007年のワールドコンで、久しぶりにお会いしました。会話も交わしました。宇宙塵50周年記念パーテイの終わりのスピーチは、目が悪いということを感じさせないほどに、頭脳明晰で理路整然とした、何年に何があったということをメモも見ないで、たしかな記憶に基づいてお話をされました。
ああ、これならお元気で問題ないなと思っていました。昨年、『SFファン48年』をお送りしたところ、すぐにはがきで返事が来て、代筆でありながらも、ご健在ぶりを発揮していたように思ってましたから、今度の訃報には少なからず驚きを受けました。
今でこそ、「宇宙塵」や「SFM」は50周年を過ぎ、SFという言葉は誰でも口にするようになりましたが、かつてはSFなどほとんど知られることのない時代があったのです。今日のSFの隆盛は柴野先生のご尽力が大きいのはいうまでもありません。かつてだれが日本でワールドコンが開かれることになると思ったでしょうか。だれがこれだけSFが浸透した世界になろうと想像したでしょうか。最近やっと出た福島正美の文庫版『未踏の時代』に書かれているSFM創立時の福島氏の奮闘同様、柴野拓美先生の『宇宙塵』創設時またそれ以後の長年にわたるご努力、ご功績は、私などがここで簡単に書くことができるものではありません。
多くの人々に影響を与えられる人物というのは、この世にそんなにいるものではありません。「『宇宙塵』が私の人生とともにあり、それに大きく影響されました」というようなことを、はがきに書いたら、そのお返事の文面の中で、「そういってくださる方がほかにもたくさんいるのはうれしいことです」とありました。
柴野拓美先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。安らかにお休みください。そして、これからも日本や世界のSFを、そしてSFファンダムを見守ってください。
合掌
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