No.350 (Web版0号)4
「柴野さん、そして浅倉さん」
林 久之
親しく言葉を交わしていただいた大先輩の訃報に、またも接することになった。ぼくをSF翻訳の世界に引き入れてくださった深見さんも矢野さんも山高さんもいなくなって、今度は柴野さんと浅倉さん。寂しい限りである。
弔辞の定番に、個人との縁について「奇しくも」という形容をよく使う。さて何かなかっただろうかと記憶を探ってみると、一つ思い出した。
はじめてお二人に会ったのは八〇年秋の「はまなこん」の会場だった。舘山寺の根本山荘に、せっかく地方イベントがあるのだから行ってみようというような動機で、翻訳勉強会のメンバーが大挙してゲスト参加することになったのだ。深見さんと柴野さんとの出会いは、まさに偶然としかいいようのない背景がいろいろあるのだが、『ルーナティック』『イスカーチェリ』をはじめ『中国科学幻想文学館』などに書いてきたので繰り返さない。ただ、浅倉さんのことはまだ書いてなかった。
あのときの懇親会で、ぼくは偶然浅倉さんの目の前にすわることになった。初めてお会いするかたに言葉をかけるのは苦手なのだが、何か言わなくては失礼にあたる。大先輩を前に気後れしながらも何か当たりさわりのなさそうなことを話しかけたと記憶している。向こうも当たりさわりのない言葉を返してくださったのだが、実に物柔らかで腰の低いかただな、という印象だった。こちらは学者肌の気難しい人を連想していたのだが。
その後、SF大会でお姿を見かけるたびに挨拶を交わしていた。いつも「はまなこん」のことを覚えていて気さくに言葉を返して下さっていた。そんなわけで特別に深い縁があったわけでもないのだが、「奇しくも」という言い方にあたるのは、二〇〇七年横浜のワールドコンのときのことである。
中国の『科幻世界』のゲストを連れて打ち合わせのため控え室にいたぼくは、浅倉さんがぽつんとひとり椅子にかけているのに気づいて、いつものようにさりげなく挨拶を交わした。少しやつれたような印象だった。同じ日、むろん柴野さんにもお会いしている。大会に参加されたかたはご存知のとおり、このときはもう目がほとんど見えなかったということで、開会式の挨拶は袖から演台まで堂々と歩いて出られたけれども、そのあとの会場内の移動はずっと車椅子だった。多くのファンに囲まれていて、なかなか挨拶する隙がなく、ディーラーズルームに来られたときようやく言葉をかけることができたのだが、私だとわかったのかどうか、いささか心許なかった。
あとで思い出してみると、お二人と顔を合わせたのは、この日が最後だった。はじめてお会いしたのも同じ日、最後に見たのも同じ日。「奇しくも」というには少々弱いが、偶然のご縁には違いないと、勝手に考えている。
いま思えば、もう少しお二人のお話を伺うべきだったと思うのだが、故人の思い出とはみんなそうしたものであるらしい。近年ぼつぼつ入ってくる幼なじみの訃報に接しても、同じ感慨を抱く。告別式に参列した者どうしでも、みんな同じ感想を述べる。亡くなった人はみな一様に、生き残る者に何か物足りない思いを残して去り、その思いをぼくたちは「さびしい」と表現する。古語ではこれを「さうざうし」といった。言い方こそ少し変化していてもきっと同じ感情なのだろう。
ともあれ、今後ともぼくはお二人に対する物足りない思いとともに、しばらくは生きることになろう。そして自分が亡くなるときも、誰かにそうした思いを残して去ることになるのだろう。
二〇一〇・三・二四
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