No.355 (Web版5号)1
SF essay (170回)
川瀬広保
柴野拓美さんを偲ぶ会に行ってきました
どんな分野にも先達というのはいる。日本のSF界の先達は「柴野拓美」であった。もちろん、「福島正美」でもあり、「矢野徹」でもあったわけだが、柴野さんは50年以上にわたって、日本のSFを育てあげたことは事実だ。月並みな言葉だが、われわれは「柴野拓美」の名前をこれからもずっと覚えていかなければいけない。
2010年9月18日(土)、この日はかねてから行くことにしていた柴野さんを偲ぶ会。いつもより早めに起きて、準備をし、駅へ向かう。最近、外出をすることも少なく、東京へ行くのは今年、浅倉さんを偲ぶ会で新宿へ行った6月、日本SF大会が行われた8月だけ。
こだまに乗り、品川へ、そこで降りて、タクシーで目指す東京工業大学の蔵前会館に着いたのは、午後12時30分ごろ、会場の受付へ着くと、そこには山岡謙さんたちが受付をしていた。「川瀬です」と告げて、名札、封筒をもらうと山岡さんは丁寧に会場の入り口まで案内してくれた。
そこには「宇宙塵」の全号が並べられていた。まずこれだけでも圧倒される。創刊号から203号まで。これだけの号を柴野さんは作品を取捨選択し、批評して最初のころは毎号、ここ数年は年に一回というように続けてきたのだ。50年以上も続けられるというその意志の強さに、改めて尊敬の念を抱いた。
その横のテーブルには氏が参加したコンベンションの参加バッジが並べられてあった。こういうものを柴野さんはしっかり保存していたのだ。大会を楽しんでいたのだ。
さらにその横のテーブルには、氏の著・訳書が並べられてあった。
後で、福田さんが、もし柴野さんがファン活動をしないで翻訳者や作家としてだけの生活をしていたら、その本の数はこんなものではないですよね、と言われた。
私もそう思った。この前のSFM「柴野拓美追悼」号で、伊藤典夫さんが、柴野さんの翻訳は余技だったんだという思いを強くした、と書かれていたが、余技で翻訳ができる人はそうそういるものではない。やはり、「柴野拓美」という人物が日本のSF界を育て上げたのだという思いを強くした。
ホールの中に入ると、壇上の司会者席のところに門倉純一さんがいらっしゃって、会釈されたので、こちらもあいさつを返した。まだ会場にはちらほら参加者が座っているだけだった。そこで、受付で渡された「塵もつもれば星になる」というタイトルの追悼文集に目を通していた。
しばらくすると、肩をポンとする人がいる。誰かなと思って振り返ると、そこには笑顔の初村さん。
第一部が終わったら福田さんと交代するという。
まず、冒頭、全員で一分間の黙とう。
その第一部は柴野拓美さんの業績を辿ると題されていた。
① がSF翻訳家・小隅黎さんについて。「小隅黎」を振り返るものだった。
牧真司さんの司会で、壇上には、梶元靖子さん、酒井昭伸さん、高橋良平さんが並んだ。
柴野さんの下訳はリファレンスだったんだという話には興味を持った。というのも、昔、柴野さんの下訳をやったことがあるからだ。確かに「赤」はいっさいなかった。
② はファン活動家としての「柴野拓美」にスポットをあてたものだった。参加者は森優さん、池田憲章さん、関口芳昭さん、山岡謙さん、そして司会が井上博明さんだった。ここでは柴野さんにかかわったファンの人たちのエピソードが語られる。
終わりごろ、「会場から、何かありますか」という問いかけに前席に座っていたゲストの名誉教授が話をされた。さらにもう一人(この方はだれかわからなかった)が話をされた。
そしていよいよ最後に柴野夫人があいさつされた。
さて、次は第二部。追悼パーテイ。大ホールの向かい側にパーテイ会場があり、そちらに移動する。献杯の後、ビールを飲み始めた時に、福田さんが登場。福田さんとは水木しげるの話で盛り上がった。ここは柴野さんを偲ぶ会なのだが、それはいいとして・・・。
しばらく経ったら、後ろに大宮信光さんがあらわれたので、持参した自著を渡すことができた。8月のSF大会で渡しそびれていたのだ。もう一人、小浜徹也さんを見たので、近づいて行ってあいさつ。自著を謹呈しようとしたら、「買いました!」のお言葉。
うれしいことです。
さて、福田さんと私はビールを飲み、談笑する。司会者が会場のどなたかを指名して、マイクを持たせる。残念ながら会場の喧騒で聞き取れず、終わるたびに自動的に拍手するのみであった。今回の偲ぶ会は浅倉さんの時とは雰囲気が違っていたと思った。それは、この会が「SF柴野学校卒業生同窓会」とうたわれていたせいか、何かの関係で柴野さんとかかわりがあった人たちがおそらくは40年ぶりに駈け参じて、旧交を温めながら、故人をしのぶということだったからだろう。また、「宇宙塵」の会員の集まりだったからであろう。会に違和感なく溶け込むことができたような気がする。
これも柴野さんのお人柄によるものであったろう。年齢のへだてなく話をしてくださいという司会者の言葉は、きっと柴野さんの遺志を継いでいるのであろう。
柴野さんは文字通り「教師」だった。何度も繰り返すが、その思いを強くした。
やがて、終了時刻が来た。門倉さんに、第一回日本SF大会(メグコン)のDVDの話を聞く。他にもいろいろ記録が残されているそうだ。こういう人がいるのでSF界の記録が残るのだと思った。翌日、早速DVDプレーヤーで再生してみる。そこには、若き日の柴野拓美、星新一、福島正美、矢野徹、手塚治虫、伊藤典夫等々の顔が見えた。
われわれ二人は品川駅でビールとつまみ(ししゃもなど)を買い、車中で2時間切れ目なく語り合った。福田さんとこんなに熱心に話したのはもしかしたら初めてではないかというぐらい。おもに福田さんの得意な分野であるマンガの話。水木しげる、手塚治虫、藤子不二雄等。
「塵もつもれば星となる 追悼の柴野拓美」は「Ⅱ 関連資料ー年譜・著作リスト」がすごい!
牧真司さんの編集で、「年譜ー柴野拓美さんの足跡」「著作リストー柴野拓美さんの仕事」が80ページを超す内容で、ファンジンに載った文章まで載っている。われらの「ルーナティック」に載ったものもしっかり載っているので、驚いた!試みに、〈SFM「ファンジン・パトロール」で取り上げたファンジンは、以下のとおり〉の中の〈ルーナティック〉のところがあったので、1970年12月号を書庫から探し出し、調べてみたら、確かにあった!気がつかなければそのままになってしまいそうなコラムがちゃんとあったのだった!
浜松に帰ったのは22時過ぎ。私は帰宅してからも、酔眼で、追悼文集に目を通しているのであった。
(2010・9・22)
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