No.363 (Web版13号)2
SF essay (176回)
川瀬広保
映画『手塚治虫の「ブッダ」ー赤い砂漠よ!美しくー』
前回、デイック原作の「アジャストメント」を見に行ったが、今回は手塚治虫原作の「ブッダ」を見に行ってきた。
重い腰を上げて、行ったのだ。最近、腰痛の他に、60肩で左腕が痛くて、映画館にまで足を運ぶのにも文字通り、決意がいるのだ。
「手塚治虫の〜」という前置きの語がある以上、これは行かなければと思っていた。
結論から先に言うと、5点満点でやっと3点という感じだった。2時間の初めの20分ぐらいは、次第に面白くなってくるだろうと思いながら見ていたが、やがて40分が過ぎ、1時間が過ぎて、これは原作を一応なぞってはいるが、やはり、もうあの手塚治虫の天才的な筆致の「絵」が見られるわけでもなく、アニメになって漫画とは違う何か別物の作品がそこにはあったという印象で終わってしまった。
関係者の方が、もし、いらっしゃったらごめんなさい。
そういうわけで、3点が限度。
私は、原作の「ブッダ」を昔、潮出版社の新書サイズで読んで、その後、文庫化されたときに、また読んで、手塚治虫の天才を心に刻み込んだのだが、以来、この作品は間違いなく、手塚治虫の多くの作品の中の名作・傑作のひとつになった。
それから、およそ30年以上が経過して、今回この映画化が見られると知って、すぐ見てきた。帰宅して、家の書庫を探してみたが、あるはずの文庫全13巻が見つからない。
仕方ないので、もう一度買いなおした。埋もれていく本が多い中で、この「ブッダ」はしっかり書店に並んでいた。
傑作は読まれ続けるのだ。
講談社でも手塚治虫全集のところに、ちゃんと「ブッダ」はあるし、潮出版社の中にも、新書版と文庫版のどちらも所狭しと並べてあった。
映画化という「事件」で作品が再評価されたり、未読の人が読んだりするのであろう。
そこで、私はもう一度、いや三読し始めた。
そこには、以前読んだのと同じ、流麗な筆致の流れるような動きのある、まるで映画を見ているような生き生きとした動物たちの動きや表情があった。
以前にどこかで書いたが、私は手塚治虫に一度、「会った」ことがある。会ったと言っても、サインをもらおうとして、あと一人というところでもらえなかったというエピソードに過ぎないのだが・・・。そこには手塚ファンが多くひしめいていた。TOKON4の時だったかと思う。サイン帳を用意して、列に並んでいたのだが、あと一人というところで、係(出版社)の人に、
「先生はお疲れですから、ここでお終いにしてください」と私の前で止められてしまった。しかし、私にはファンを大事にしようとか、手塚治虫の「人間味」というようなものは伝わってきた。
その人間味が、この「ブッダ」にも色濃くあらわれている。
また、手塚治虫の描写の素晴らしさは、例をあげると、潮出版社の第1巻、第1章「バラモン」の初めの部分で、豪雪の中で倒れかけている僧にあげようと、熊やキツネが食べ物をとっている中、ウサギだけは、何もとれなくて、熊たちに責められている。そこで、ウサギは、僧に「火をおこしてください」と頼み、自ら火に飛び込み、自らの肉体をささげるという場面は、いっさいセリフなしで表現されている。
また、同じ巻の最後のところで、大蛇に卵をもらうかわりに、人間をひとり犠牲に差し出し、蛇に飲まれるところも、リアルなすさまじい表現力だ。
第5巻、第3章「老婆と浮浪児」では、ワシに追われる山猫の子供を助けようと、母猫がすさまじい勢いでワシに挑んでいく背後に、一匹の大蛇がせまり、子猫をまとめて絞め殺してしまう。ワシとの闘争で瀕死の重傷を負った母猫はついに倒れてしまうが、今度は子猫を飲み込んで、動きの遅くなった大蛇は殺人蟻に襲われ、骨だけになる。そこを、すさまじい雷雨が降りかかり、蛇は砂漠の中に、消えて行く。こうした、自然界の掟というか、非情さ、無情さを手塚治虫は、実に鮮やかに描き出す。
こうした場面は、天才・手塚治虫でしか、描けないような、まるで映画を見ているような、迫力ある場面の連続だった。
だが、こういうものを期待していた手塚ファン、映画ファンとしては、ちょっと裏切られたような印象を抱いた。
というわけで、このアニメ版「ブッダ」は、私には、やはり3点だった。
(2011・6・10)
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