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No.365 (Web版15号)2

 去り行く大御所を偲ぶ

 中村達彦


 7月26日、SF界の巨星没す。前号でもニュースがかけめぐった小松左京先生の死去は、星々を照らし続けてきた巨大な恒星が輝きを滅し、消滅する光景を連想させる。
 自分は、威張れるほど小松左京の作品を精読していた訳ではなく、ましてや先生と一面識すらない。それでも読んだり、聞いたりした幾つかの事柄を振りかえり、自分なりの感謝と追悼としたい。

 1980年夏、「復活の日」が映画化された。
 近未来、東西冷戦のスパイ戦争によるアクシデントで漏れた細菌兵器により、南極に住む一握りの人間を残して半年で地球人類が死滅、続いて大地震で核兵器の自動発射装置が誤作動し生き残りの人間も……。と言うストーリーは、深作欣二監督で映画化され、南米でロケーションを行うなど大がかりな製作となった。角川書店の大がかりな宣伝の手伝い話題作となった。
 当時、中学3年生だった私は映画を観た直後、父が原作を買ってくれ、読む機会を与えられた。
 細菌によりヨーロッパからソ連、中国そして日本と不可解な事件が相次ぎ、社会に徐々に影響を及ぼしていくディティールが丁寧に描かれていた。これが小松左京作品との初の遭遇である。
 小松左京は、冷戦最中に「復活の日」を書いたが、核戦争とは別の切り口で戦争による世界滅亡の危機をテーマにした作品を描いた。劇中では、同時に核兵器も皮肉な使われ方をしている。これに日本基地も建設された南極を舞台に持ってくることで、大がかりなドラマの筋書きを整えている。
 また主人公で南極隊員の青年を設定したがその視点と、各地で細菌の被害を目の当たりにした様々な人々の視点を交互に描いたが、主人公の存在が最後に人類再生の象徴として生きてくる構造もうまかった。どうしても人類の存続の危機と言うSFドラマを描くと、主人公の扱いが難しい。
何か大活躍をさせるか、単なる傍観者、歴史の証言者にさせるか、さじ加減が難しいのだ。
 「復活の日」と同じ時期、やはり日本SFを確立させた矢野徹(故人)も「地球0年」という核戦争で崩壊した世界を描いており、同じような人物構成を持ってきている。
 小松左京の代表作は何といっても「日本沈没」だが、個人的には、「復活の日」に受けた影響が大きかった。続いて高校時代にラジオドラマで偶然知った「地には平和を」。一種の歴史改編ものである。本土決戦に突入した日本で戦い続ける少年兵が、タイムパトロール隊員と出会い、この世界が改ざんされたと知らされる話である。
 今回、この原稿を書く少し前に、角川書店から20年以上前に発売された文庫本の短編集「召集令状」を読んだ。上記の「地には平和を」の他にも、戦争を題材にした警鐘とも皮肉とも言える作品を幾つも収録している。老人の妄想から混乱する一家を描いた表題作、突然平和な日本が戦場と化す「春の戦争」や、太平洋戦争が無かったことにされている「戦争はなかった」という作品もある。実際、現在の日本で、多くの若者が太平洋戦争について知らない実情と重なり、恐怖さえ感じる。
 「戦争はなかった」は、20年前「世にも奇妙な物語」で映像化されている。
 私には、小松左京は戦争の恐ろしさについて、SFを使って描いた作家の面が強かった。

 小松左京作品は、マンガの原作で料理されたこともあり、有名な作家とのコラボもある。
 手塚治虫の「ブラックジャック」を読んでいたら、「春一番」という話で、小松左京が実名でゲスト出演したのには驚かされた。これは大林宣彦監督の手で映画化ももされている。
 また映像でも関わり方が大きかった。74年秋にSFドラマで「猿の軍団」が放送された。6年前にルナチィックで紹介したことがある。「猿の惑星」の亜流と言われがちだが、実際は冒険ものとして面白く、諸設定や謎解きのディティールも丁寧に作られている。そのすぐ後、「日本沈没」TV版が1時間番組として、両作とも2クールにわたり放送された。
 他にも自身が関わった万博と同時期に作られた人形劇「空中都市008」や「復活の日」の前後に映画化された「エスパイ」「さよならジュピター」「首都消失」があるが、他にも幻に終わったアニメ企画が2本ある。うち一つは「宇宙船ギャラップ」82年に企画され、アニメ雑誌でもその制作が発表された。小松左京の「宇宙漂流」が原作で、宇宙をさすらう少年少女たちの群像劇であったが(キャラクターはいのまたむつみ)、中止になった。アニメ会社サンライズが先に「銀河漂流バイファム」という似た内容の作品を発表したためと言われている。
 また2000年に、SFセミナーに出席した角川春樹は、「今、準備を進めている企画があって」と「南極を舞台にした話で、小松左京に原作を書いてもらい、富野由悠季に監督でアニメを作る。小説、コミック、ゲームとマルチメディア展開するんだ」と語った。結局、角川社長はすぐ後に4年にわたり、表舞台から姿を消し、企画は幻に終わったが、私を含むSFセミナー参加者は「おおっ!」と期待したものだった。
 もし幻のアニメ企画が実現していたら、当時の話題作になっただろう。何より、小松左京には、本世紀に入ってから、もう一仕事でヤングアダルト向けにSF啓蒙の作品を描いてもらいたかった。

 小松左京は、日本SF界の大御所である。「日本沈没」のような大作を連発し、SFというジャンルを日本の文学に浸透させた功績が大きいが、新しいもの好きで、様々なジャンルに目を向ける幅広さを持っていた。
 大御所だが、尊大でも傲岸不遜でもなく、気さくで太っ腹の人であり、逸話はいろいろある。その中で私が感心したのは、古典SF研究で知られる横田順彌の自伝に載った証言である。
 昭和40年代、SFマガジンで連載を続けていた若い新人である横田に、小松左京は自分から親しく声をかけ、いろいろアドバイスしたのが、最初の出会いだと言う。
 続いてSF大会で横田が企画を準備していた時、多忙な姿を見かねて、小松は作業をそっと手伝ってくれたと言う。その時、準備で疲れていた横田は、考えていた配置と違ったことに、「誰だ!勝手なことをしたのは!」と公の場でめちゃめちゃ怒鳴った。普通なら「折角、助けてやったのに何だ!」と叱られても仕方なかったが、小松は何も言わなかった。後で事情を知った横田は、その度量に感激した。その他にも、新人監督たちをリードし、アドバイスした証言が幾つもある。
 小松左京は亡くなるまで、日本の将来やSFを案じていたようだ。
 しかし「日本沈没第二部」は谷甲州、森下一仁両氏の協力で完成させることができた。2007年には多くのファンにより、ワールドコンを横浜で実現させている。東北の大地震についても援助を惜しまない海外や国民の姿に、「もう大丈夫」と、安心していたのではないか?
 改めて我々も、小松左京の遺した著作の数々を読み返し、今後の参考にすることで、そこ活躍を継承していきたい。創作や生き方のヒント、学ぶべきことは沢山ある。
 先生、いままでお疲れ様でした。

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