祝PM400号!
私的な回顧録
川瀬広保
1 SFとの出会い
昔、書いたことと重複するかもしれないが、私はSFファンになる前は、天文ファンであった。そのきっかけは野尻抱影の一冊の本であったように思う。その本の口絵に写真(?)の素晴らしい土星があった。この本を読んだのが12歳ぐらいの小学生のころだった。
自分でも土星を見たくなった。それが実現したのは、中学生になって手製の望遠鏡を使って、夜空を見たときである。また、学校に理科教材を売る業者が出入りしていて、当時700円のごく簡単な手動式簡易望遠鏡を販売に来たことがあった。何しろレンズは単レンズ、窓にくくりつけて手で動かし、調整するといういわば、大人から見ればおもちゃのようなものだったが、私は毎夜、それを使って月や惑星、特に土星を見ようとしていた。
揺れる視野内にちっぽけな輪のようなものがあるのを見つけ、「あ、これが土星か!」と思い、うれしくて、興奮した。
やがて、高校生のころになると、8センチのもっと大きな望遠鏡を手に入れるようになった。アストロ光学というメーカーが販売していたものだった。
だが、何回見ても、ある大きさ以上のくっきりとしたクレーターや土星が見えるわけでなく、自然に私はSFへと興味が移行していった。私は、天文ファンではあるが、何年たっても技術は向上していない。
さて、現実の科学の発展は遅々とした歩みでしかなく、透明人間もタイムマシンも月世界旅行もタコ型宇宙人の地球襲来もそんなに簡単に現実化するわけではないということがわかるころ、私は「SFマガジン」と出会うことになった。
2 東海SFの会へ入会
東海SFの会入会のころ、私はまだ高校生だった。今もある谷島屋連尺店の中に、「SFマガジン」を見つけた。「SFマガジン」という雑誌があることを、その書店へ行く前に、福島正実が新聞に投稿した文の最後にSFマガジン編集長とあるのをみて知っていたのだ。
見つけたのは53号だった。高校生の私は、SFという言葉は知っていても、SFマガジンなるものがどういう雑誌なのか知るはずもなかった。もしかしたらいかがわしい雑誌なのではないかなどという警戒心もあった。だが、そんな心配は見事にはずれた。この号を見つけなければ、星新一を、小松左京を、アーサー・C・クラークを知るのはずっと遅くなっていただろう。53号から、私はSFマガジンをずっと購読している。
そして、ある号のSFマガジンの「てれぽーと欄」に東海SFの会の会員募集記事を見つけたのである。その号は今でも探せば、書庫のどこかにあるだろう。
白柳孝さんこと、広柳高さんの名前を見つけて、入会したいという手紙を出した。白柳さんが広柳になっていて、孝が高になっていたので、白柳さんは、郵便受けの氏名を急きょ、広柳高にしたのだということを、訪問時に教えてもらった。メールも何もない時代で、電話で早川書房へ伝えたら、氏名を間違われたらしい。
3 「ペーパー・ムーン」を知る
東海SFの会には「ルーナティック」というファンジンがすでに存在していた。また、「ペーパー・ムーン」という連絡誌が出現するのはすぐ後だった。
私は、白柳さんから「ルーナティック」に何か書いてほしいと言われたのがきっかけで、書き始めたのである。
初めて、載せてもらったのは確か「2001年宇宙の旅」「猿の惑星」の映画評だったように記憶している。このころは、大学生だった。東京の映画館で見ていた。どちらも大評判の映画だった。浜松では上映しなかったのだろう。
連絡誌は「ペーパー・ムーン」と名付けられ、それにも文を載せてもらうようになった。最初は単発のエッセイや映画評、書評などの文章だったが、少しして、「SFエッセイ」と題して、毎月書くようになった。
もちろん、書かない、あるいは書けないときもあったから、必ず毎号、載せてもらったわけではない。
東海SFの会にもあれこれあって、PMが「純粋桃色新報」などという名前に変わったこともあったが、私は何かしら書き続けた。
4 「SFエッセイ」を書き始めた
「SFエッセイ」は私にとって、おおげさに言えば、私の人生とともにあった。後日、『SFエッセイ』という私的な本を出版したし、また、さらに、『SFファン48年』という本も出した。それらの中に載っている文は、ほとんど、PMのこの「SFエッセイ」からのものである。
書庫の奥の方を探してみたら、Paper Moonの24号(昭和58年2月1日)に「SFエッセイ① SF本さがしある記」が載っていた。
ちょっと引用してみよう。
週に一度ぐらいは必ず本屋へ行く。二週間行かないでいると、不安になってくる。何か新刊が出ているのではないかと気になるからだ。結局、読みもしないで終わる本のために出費がかさんでも、これはやめられない。(中略)
最近は、明屋書店、戸田書店へよく行く・・・。(以下略)
昔はよく行った書店名が出てくるところが懐かしい。その数号あとには、〈今月のSF〉①というのが載っていて、題は クリフォード・D・シマック「宇宙からの訪問者」となっている。
ファンジンというのは、好きな人が集まって、好きなことをやればいいので気が楽である。
映画が好きな人、漫画が好きな人、翻訳が好きな人、絵が好きな人など、それぞれ好きな分野で活躍すればいいのだ。
私の場合、SFに関係したエッセイを書き連ねて、福田さんのところへ送って、PMに載せてもらうということを、222回ぐらい続けたわけである。
このことがささやかな私の人生の生きがいになったわけであり、今もそうである。
それが長く続いた。みなさんのおかげである。
手元にある自著『SFエッセイ』の最初の部分を見ると、昭和61年となっている。それ以前のものを探すのに役に立つのは、森東作さんのデータベースである。
それによると、私の「SFエッセイ」の第一回は1983年の「SF本さがしある記」となっていた。これによって、私は前述の「SFエッセイ① SF本さがしある記」を見つけ出したのだ。
森さんのデータベースはまったくありがたい。
5 PM400号
400号と言えば、33年以上の年月が経過している。単純に計算してみると、2回に1回の割合で、何かしら文を送って、掲載してもらったことになる。ファンジンのいいところは、何か書いて送れば、必ず載せてくれるということだ。これが、新聞への投稿とかSFマガジンの「てれぽーと欄」などへの投稿となるとあれこれ気を使う。
そんな私の文を、最初のころは白柳さんが載せてくれた。その後、古橋さんが私の文を手書きで書き直して載せてくれた。
一番長く載せ続けてくれたのが、福田さんである。まことに感謝にたえない。
また、最近は東海SFの会のウェッブ版に新村さんがPMに載ったエッセイなどをアップしてくれている。こちらもありがたいことである。
自分のことばかりを書いていて申し訳ないが、もちろん、PMにはたくさんの方が寄稿されている。これをまとめれば、PMだけで一つの歴史が出来上がろうというものだ。
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