No.416 (Web版66号)2
SF essay(235回)
川瀬広保
3月9日に部分日食が起こる。午前10時ごろから、お昼ごろまでで、天気さえよければ、太陽が二割程度欠けるのが見えるそうだ。晴れになることを祈る。
そう思っていたら、残念ながら、当日10時ごろから、雨が降り出した。北海道や沖縄の方では、この部分日食が見えたとニュースが伝えていた。日食や月食など、いつものことながら、めったにない天体ショーにはいつでも心を動かされる。
さて、いろいろ考えさせてくれる質のよいSFというのは、なかなかないものだが、ふとしたことで思い出すSFの中に、クラークの「太陽系最後の日」の冒頭部分がある。無限の能力を与えられたアルヴェロンは、同時に無限の責任も持たなければならなかったというくだりである。
上位のものは、下位のものに、責任を持たなければいけないのだろうか。オーバーマインドは、オーバーロードに、オーバーロードは人類に、責任を持つのだろうか。事件が起こると、必ず上の人が頭を下げる。宇宙もそうなのだろうか。このクラークの一文だけで、深遠なテーマがありそうで、やはりクラークはすごいなと今更ながら思う。
最近、気になるのが若者言葉や、テレビや新聞などに現れるカタカナ語、造語、略語の横行だ。
例えば、「真逆」は「正反対」ではいけないのか。「すごい」はなぜ「スゴい」と書くのか。コンビニなどで、なぜ「いらっしゃいませ、こんにちは」と言うのか。「いらっしゃいませ」で十分だ。
なぜ、「ありがとうございました、またお願いします」というのか。お願いされたから、買いに来るのではない。必要があって、何かを買いに来るだけだ。マニュアルに従って、機械的に言っているだけだと思うが、返って、反感を感じる。
「心のケア」などと、なぜか英語にしたがる。事件が起こると、「ケア」という英語で、事件を終わらせてしまうのはよくない。「ケア」とは、看護とか介護という意味だ。「心を十分に介護・看護する」ではだめらしい。過剰な略語、カタカナ言葉も多い。
「〜させていただく」という言い方も、本音は「〜のようにします」ということだ。言葉が乱れると、人は軽薄になる。人が軽薄になると、国全体も軽薄になる。
コマーシャルも朝から、夜まで流し続けられる。テレビを消せばいいのだが、まじめな番組もあるので、そうもいかない。
さて、筒井康隆の新刊『モナドの領域』を読み終わった。著者自身の「最後で、最高の傑作」というふれこみなので、思わず買った。入手するまでに、時間がかかった。増刷中だったのだろう。筒井康隆らしさが、ところどころに見える。実在の名前が出てきたり、自分の本のタイトルが出てきたりで、作者は楽しんで書いている。
特に最後の方のGODとの対話場面は、思弁的であり、少しSF的内容で、難しいところがあるが興味深い。
GODはあらゆる「神」を超えた存在らしくて、何十億年も前から、登場人物たちのあらゆる過去・現在・未来を知っているらしいのだ。また、登場人物に限らず、あらゆる人々の心の内面や事件の結果や未来もわかっているらしい。決して、読みやすいわけではない。若いころの筒井康隆はもうここにはいないようだ。しかし、それを上回る重みと深みのある内容の筒井康隆がいるように思った。読み進めるのには、少し大変だがお勧めの一冊である。
さて、この文も終わりにしようと思っていたところ、「人工知能が小説を執筆」「星新一賞に応募、一次選考を通過」というニュースが飛び込んできた。人工知能が小説を書く時代が来たのかもしれない。人工知能が書いた星新一らしい小説、筒井康隆らしい小説など、本物と「本物らしい偽物」の区別がつかないものが横行するようになるかもしれない。
(2016・3・22)
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