SF essay (236回)
川瀬広保
「熊本地震」に思うこと
レイ・ブラッドベリの『10月の旅人』とヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』を買った。新装版、新訳版ばやりだ。ハヤカワも創元も新装版やら新訳版を次から次へと出版している。かつての名作が、新装版やら新訳版で出ているということを知るとどうしても「郷愁」を感じて、また買ってしまうのだ。
さて、4月15日午後9時過ぎに、熊本で大地震が起きた。以後、テレビは地震一色になった。翌日、16日深夜1時ごろ、もっと大きな地震が起きた。
スマホの地震速報は、ふだんは、せいぜい1日、2〜3回ぐらいしか鳴らないのに、今夜は30回も着信があった!しかも、ニュースを見ていると、震源が移動しているようだ。
先日、ボランティアで浜松城へ行き、外国人8名ほどに、浜松城のことを英語で説明した。うまくは言えない。頼まれたので、浜松城公園は地震などの災害時の避難場所になっていることを言ったら、何か日本は地震国で今にも大地震が起こるのではないかと、みなさんが不安そうな顔に見えたので、
“It's OK, don't worry. Big earthquakes don't occur usually. They're rare.”などと言ってみた。ところが、そのほんの三日後にこの巨大地震だ!彼らはもうそれぞれの国に帰ったか、まだなのか知らないが、どう思ったことだろう。
毎日、予測がつかないことが起こる。テレビでは、専門家と称する人々があれこれ述べているし、コメンテーターたちがあれこれ批評する。1000年に一度のこうした地震を予測しようとするのは、人間の思い上がりだろう。
今日、17日、地震は収束するかと思ったら、どうもそんな簡単ではなさそうだ。米軍のオスプレイが援助のため、飛来し始めるようだ。『日本沈没』にならなければいいのだが、ならないと断言はできない。
専門家もみんなわからないと言っている。気象庁も「観測史上、初めてのこと」と述べている。我々人間は、自然をコントロールできると思いあがっていないだろうか。パソコンやら車の自動ブレーキやら、次から次へと新しくなるスマホやら、いつのまにか、なんでもできると思っていたのではないだろうか。
自然の猛威の前には、小さな人間のやれることは本当にわずかだ。耐震にも限度がある。地盤が良いかどうかと盛んに言うが、そういう良い場所はない。もともと日本は地震列島で山の中腹に家が建っているのだ。都市がある平野は一部だ。そんな山に、建物を建てて、住んでいる。巨大地震が来れば、土砂であっという間に埋まってしまう。もろいものだ。
だからと言って、日本から逃げるわけにはいかない。こういう災害が起こると、いろいろ考えさせられる。おっと、私も、批評家みたいなことを言っていたようだ。
さて、SFには何ができるだろうか。明るい未来を想像すれば、どんなに笑われてもそれはやがて実現するだろう。暗い未来を想像すれば、明るくなるはずの未来も暗くなる。だれも考えたことのないことを想像すれば、やがて現実化するであろう。透明人間もタイム・マシンも現実化してはいないが、宇宙エレベーターやウエアラブルパワードスーツなどはもう現実化し始めている。昔、SFでしかなかったものが、日常になっているものは多い。
SF的思考、想像力はこういう災害の時期こそ、必要ではないだろうか。ドローンで災害地に必要なものを直送することはできそうな気がする。これはもうSFではない。クラークの名言に、「もし誰かがそれは不可能だと言ったら、それはいつか実現する」というような言葉があったが、世界の最先端を行く有名な科学者やSF作家たちは、そう考えていたのだ。今はそんなことは不可能だと言われていることも、いずれ可能になるということであろう。
「地震の制御?」「そんなことできるわけはない!」「台風の進路変更?」「そんなことは絶対できない!」と今は言うが、未来においては可能になっているかもしれない。
エコノミークラス症候群のニュースを見るたびに、わずかなスペースがあれば、足を伸ばして寝られる。寝がえりも打てる。南海トラフには影響ないと言い切る専門家はいない。日本国じゅうどこでも、この「熊本地震」のような大地震は起こりうると述べている。十分な備えはなかなか難しい。
さて、未来は国家や政治家が作るのであろうか?狭義的にはそうだろうが、巨視的には、質のよいSFが未来を作るのだと断言していいように思う。あれこれ考えさせられる今度の巨大地震である。まだ、今日、22日の時点で地震は続いている。
さて、この地震が早く収まってくれることを祈っています。
(2016・4・23)
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