No.423 (Web版73号)2
SF essay(242回)
川瀬広保
あれこれ考える
木星の衛星、エウロパから水が噴出している写真が公開され、大きなニュースになっている。水があれば、生命があるかもしれない。生命がいれば、それはやがて進化発達して、いつか知性のある生命となるだろう。知性とは何かという大きな命題もあるが、「われわれは孤独ではないのだ」という有名なことばが現実化する日も案外と近いかもしれない。
日本円二千万円で、米ベンチャー企業が火星への有人飛行計画の計画を立てているそうだ。たとえ、お金があっても、あなたは火星へ行きたいですか。戻ってこれればいいかもしれないが、たぶんそんな保証はどこにもない。しかし、このニュースは夢があっていい。「向こうはどうだった?」(エドモント・ハミルトン)と行ってきた人に聞けばいい。
この間、ボランティアで浜松城へ行った。外国人が来たのでいつものように話しかけてみた。「日本語、わかりますか」だいたいの外国人は「ちょっと」と答える。そこで、“Do you speak English?”と聞くと、“Yes”となるので、あとは英語で話す。わからないところは、わかったようなふりをする(本当はよくない)か、話題を変える。その日、わかったことは、彼は英国からやってきたばかりで、小学生にこれから英語を教えるのだそうだ。
近いうちに、日本も小学生から英語が教科化されるようだが、わざわざ外国へ行かなくても、英会話の素材は近くにあるかもしれない。
朝から、テレビばかり見ていると、コマーシャルに毒される。本当に心和むコマーシャルはほとんどない。また、民放もNHKも同じコメンテーターや芸人が、朝から夜まで、出演し続けている。世論はテレビに支配されている。ブラッドベリがこのあたりの未来を、予言していたように思う。何か事件が起こると、テレビは
必ず、街の人はと言って、両方の意見を聞く。それを見ている視聴者は、「ああ、そうだよね」となんとなく分かったようになって終わってしまう。
近未来をあらわすSFと遠未来をあらわすSFとでは、後者の方が面白い。ウェルズの「タイム・マシン」では、80万年後の地球はモーロック族とエロイ族の二つしかないという地球を予言していたが、われわれは邪悪なモーロック族に支配されているエロイ族なのかもしれない。
ネビル・マリナーが死去した。92歳だったという。映画「アマデウス」の音楽を担当した。「アマデウス」は何回も見た。ストーリーはもちろんだが、音楽がなければこの傑作が永遠のものにならなかったであろう。ご冥福を祈りたい。
健康は幻影であるという言葉があるが、そう思いながらもわれわれは医者に通う。薬を飲めば病気が治ると信じている。
「ねえ、パパ、お医者さんってどういう人?」
「お医者さんっていうのはね。次から次へと病気を作る人のことだよ」という面白い小話があるのを思い出した。
今年のノーベル文学賞が、ボブ・ディランに決まったが、選考委員会は一日たった今でも本人と連絡が取れないという。村上春樹が本命だと言われ、ファンたちが受賞前祝いだと言って、騒いでいる様子がテレビに映し出されていた。期待をしてはダメなのだ。
ところが、いざとなると、だれも予想していなかったボブ・ディランが受賞するということに、賛否両論があって喧々諤々だ。ただし、本人は黙して語らずだ。
私としては、ノーベル平和賞にノミネートされたアーサー・C・クラークを思いだしたり、賞には無縁だったが、ノーベル文学賞を与えてもよかった星新一を思い出す。ノーベル文学賞は、どうも日本人(日本語)には難しいようだ。
この話題はまだまだ続きそうだ。
この世は、オスとメスでできている。人間も例外ではない。男が老いると枯れていく。女は安倍首相が言うまでもなく、はじめから輝いている。テレビは終日、女の顔を大写しで映し続ける。老いた女より、老いた男ほどみじめなものはない。スペース・ヴァンパイヤに生気を吸い取られた抜け殻みたいになっている。
生気を与えてくれるのは何だろう。太陽のエネルギーや海や大洋の自然エネルギーだ。オリンピックで日本人がメダルを取ったり、ノーベル賞を取ったりすると日本国中が一時的に輝く。輝いているのは一時だけだ。
さて、あれこれ考えていると、いつまでも終わらない。あれこれ考えない方がいいのかもしれない。流れに身を任せる方がいいのかもしれない。しかし、その流れはほんの少しの違う考えから生まれるのだ。それもSF的な想像力からであろう。その想像力が世の中をよい方向に変えていくと思う。
さて、秋はあっという間に終わり、だいぶ寒くなってきた。人間は天候に支配されている。地震もそうだ。今回は、あまり、SFについてのエッセイにはならなかった。すみません。
(2016・10・26)
| 固定リンク
コメント