No.424 (Web版74号)2
SF essay(243回)
川瀬広保
もう11月も終わりだ。暇なとき、時間が過ぎるのはゆっくりだが、忙しい時は速い。時間というのは、過ぎてしまえば、なぜこうも速いのだろう。
そして、歳をとると暇なときばかりだ。そこで、朝からずっとテレビを見ることになるが、繰り返される同じコマーシャルに毒されてしまう。あわてて消音してみる。
また、パソコンでニュースを追っても、関心がないものはどうでもいい。芸能人の誰が結婚したとか、離婚したとか。軽口をたたいた大臣が辞任させられそうだとか。次期アメリカ大統領候補者の中傷合戦はもう聞き飽きたが、どちらが勝つかやはり気になる。
星新一訳、フレデリック・ブラウンの『さあ、気違いになりなさい』の文庫本がもう出ているはずだ。こちらはSFファンとしては、気になる。かなりたっての再版だからだ。
H2Aロケットの打ち上げ成功より、変なおじさんの踊りの流行の方が、テレビで取り上げられていることが気になる。
年金のニュースは、いやでも聞いたり、見たりしてしまうが、国会答弁で安倍首相の教科書的な模範回答を聞いていると、年金生活者の希望は見えない。
浜松は井伊直虎ブームでどこへ行っても、いやになるほど旗などがひらめいている。一時的な流行に過ぎない。一年たったら、もうだれも見に来ない記念館をいったいどうするのだろう。
ボランティアはお金もかかる。毎日やろうとは思わない。健康のための運動はせいぜい近所を歩く程度だ。
さて、輝く明るく平和な未来を想像するSFを読みたい。
だが、実際は例えばNHKのEテレで放映している「団塊の世代」でこの前扱ったがんで死ぬ人の割合が非常に多いという暗い話や、国会での強行採決の乱闘の様子を見ていると、人類はおろかで進歩がなく、争いは戦国時代にまでさかのぼっていつの世も同じだと思わざるをえない。
それより、みんながもっと未来を作るのは自分たち自身だということを理解しあって、良いSFを読んでいくほうが、ずっといいと思う。怒りの感情ががんを誘発するだろうし、争いが高じて、自爆テロにまで発展して、とどまることを知らない。また、我が子を虐待して、殺してしまうようなニュースが多いけれど、必ずしつけのためだったなどと言っている犯人も、追及されると最後には自戒の念を感じるのであろうか。
SFにもいろいろあって、戦争SFとかエイリアンのような人類との戦いをこれでもかと見せられると、感覚が鈍るのであろうか。
ポケモンGOをやりながら車を運転して、事故をおこすニュースに接すると、こんな未来はかつて想像していなかっただろうと思う。
人間は刺激を求める本能があるので、ユートピア未来SFにはほとんどお目にかからない。
クラークの「都市と星」の中に、遠い未来では、常に午後2時の日差しがふりかかり、人々は日常の些事から解放され、芸術に時間を費やしているという一節があった。すなわち、病気、争い、食べものを得る、暮らし家があるかなどの心配は一切いらないのだ。そういうところだけはいつまでも覚えている。
ドラえもんに頼めば、タケコプターを出してくれて、時速90キロでも、電池切れがあっても、地上の渋滞や工事などをよそにどこへでも行かせてくれる。現実は、地上は工事中だらけで、雑然としているのが実情だ。私がこんな批評をあれこれ書くよりも、小松左京の「ゴエモンの日本日記」のほうがはるかにサタイアに満ちた文を書いている。
人間の心から、悪の概念を取り除いてしまえば、この世は文字通り素晴らしい世界になるはずだが、なかなかそうもいかない。動物はみな、弱肉強食で、食うか食われるかなのだ。映画「アルマゲドン」では、善と悪の最後の戦いを描写していた。善はあるとき、悪になり、逆もまた真なりである。「スペース・ヴァンパイア」のような一種のホラー?映画も考えさせられる。エネルギーを吸い取ってしまえば、生き続けられ、ヴァンパイアのエネルギーはものすごいものだ。
かつてSF作家たちはあらゆるテーマで物語を紡ぎだしてきた。ウェルズの「宇宙戦争」では、地球に住む人類の愚かさを冒頭から確実に表現していたので、思わず読み進めいくことになった。火星人は最後にはヴィールスにやられて死んでしまうところが、読者に人類が破滅しなくてよかったと思わされたものだ。
よいSFは考えさせられるものをもっている。思慮深い優れたSFを読んだ人は、そうでない人よりいい人生を送れるのではないだろうか。古いと言われるかもしれないが、私の場合、お勧めのSFなどは以下の通りである。順不同で、
クラーク「幼年期の終り」
クラーク「都市と星」
クラーク「太陽系最後の日」「星」(これはある意味、難解だ。)
クラーク「2001年」「2010年」
ウェルズ「宇宙戦争」
星新一「鍵」「殉教」「ボッコちゃん」「おーい、出てこい」「あーん、あーん」
ハミルトン「反対進化」「向こうはどうだった」「プロ」「フェッセンデンの宇宙」
ハインライン「夏への扉」
夏目漱石「吾輩は猫である」
ジェームズ・サーバー「レミングとの会話」
などと、タイトルを並べていると、よい作品は多い。
さて、こうした作品を早く読んだ人と全く読まない人とでは何かが違うのではないだろうか。
アメリカの新大統領にトランプ氏が決定した。このニュースばかりだった。世界が富めるものと貧しいものと二極化しているから、こういう選挙結果になるのだ。ノストラダムスの予言の通りになってきた。アメリカも二極化し、日本の国会を見ればわかるように、日本も二極化している。まとまらないのがこの世の常だ。
スーパームーンの話題で持ちきりだ。その日は天気がよくなかったが、次の日は良い天気で、一日遅れの月は堂々といつもより大きく輝いていた!スーパーマーズの時も話題になった。その時もなんとなく、火星が大きく見えた。もし、月や火星から、地球を見ていたら、スーパーアースとなるのであろうか。望遠鏡で見たり、探査機で近接撮影をすると、石ころが転がっているだけがわかって、興ざめなのだが、肉眼でみるとそこにはそこはかとない郷愁が感じられる。おかしなものだ。
さて、もうじき12月だ。一年が過ぎるのはなぜこうも速いのであろう。いつもの言葉で、今回もあまりSFエッセイらしくなく、ただの雑談みたいで、ごめんなさい
(2016・11・28)
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