SF essay(249回)
川瀬広保
SFマガジン4月号に筒井康隆へのインタビューが載っている。星、小松、光瀬などの大御所が他界した後、ビッグネームがSFマガジンに載るのは、久しぶりだ。昔のことが思い出される。時々、往年の作家の近況も知らせてほしい。
さて、この「SFエッセイ」も回を重ねて、249回となった。あと1回で250回となる。だが、この数字が正確に合っているかどうかは本人にもわからない。まだ大学生だったころ、発行していたファンジン「テラ」に「SFエッセイ」と題して、文を書いたのが残っているので、相当古い。40年ぐらい前だろうか?自画自賛になるが、よく続いているなあと思う。最近は、SF以外のこともあれこれ書いていることが多い。本当はもっと新刊SFや映画の批評をすればいいのだろうが、なかなかそうはいかない。趣味と言えば趣味であり、ファン活動と言えばファン活動である。これからも続けていきたい。
最近、過去の名作・傑作の新訳版、新装版が次々と出ている。気にかけているのは、伊藤典夫訳、シルヴァーバーグの『時間線をのぼろう』とクラークの『地球幼年期の終わり』である。過去に買ったことがあっても、また買おうとしている。昔、買ったSF本がここにある。小松左京の『影が重なる時』だ。ハヤカワ・SF・シリーズの一冊であり、昭和39年発行とある。330円。だいぶ古くなり、劣化している。そこで、この本に限らず、再販、新装版などが出版されるようになると、ファンとしてはつい買おうとして買ってしまう。時代が変わっても残っていくほんといつのまにか消えていくものとがあるように思う。いったい、SFに限らずどれだけ後世に残るのだろう。
星新一は、1000編余のショートショートを書いた。そして、後世に残るものは、1パーセントしかないと言って、いつまでも残るように、自作の言葉をいつの時代になってもいいように変えていたりした。どうしても、言葉が古くなる。あんなにたくさん書いたのに、わずか10編しか残らないのであろうか。
一方、出版社としては、売れるものを出し続けることになる。いたし方ないところであろうか。
さて、ボランティア活動で時々、浜松城へ行く。全く、しろうとだが、お客さんに、浜松城や徳川家康のことなどを説明する。特に、英語を話す外国人とたまに話す機会があって、こちらの英語が通じるとうれしくなる。相手の速い英語が全部わからなくても、何とか要点をとらえようとしている。
言葉というのは、大よその文法を間違えていなければ何とか伝わる。わからないときは、はっきりわからないと言うことにしている。
日本語でも同じだ。日本語が話せる外国人の日本語を聞いていると、そのことがわかる気がする。また、言葉が少ないと何も伝わらない。うれしいのか悲しいのかなどの感情や意見も時には含めるべきだ。
また、別のボランティアで、中学生に時たま、英語を教えることがある。こちらは、月に一度あるかどうかだが、楽しみにしている。母子等家庭の恵まれない子供たちが相手だ。政府の政策から来ているものである。
これらは、せいぜい合わせて、50回もあるかどうかである。
「SFエッセイ」はまずは、次の250回を目指したい。
(2017・5・25)
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