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2017年8月

No.432 (Web版82号)3

SF essay(251回)

川瀬広保

 250回を終えて、とうとう251回である。
 さて、数にこだわる必要はないので、話題を最新のSFについて持って行こう。
 今は、ヴォㇰト「宇宙船ビーグル号の冒険」の新版に興味がある。

 さて、私の好きなSF作家の一番目はクラーク、そしてアシモフ、ハインライン、そしてこのへんから順位は決して決められないが、ハミルトン、シマック、ブラッドベリ、ベスター、ディック、ブラウンなどとなる。以下、思いつくままにあれこれ書いてみよう。

 クラークは優れたSF作家だが、同時に優れた科学エッセイストでもある。
『未来のプロフィル』こそ、そのことを証明している。透明人間を科学的に考証してみたり、今後の未来を予測してみたりと、ただの想像・空想ではなく、科学に裏打ちされ、十分にありうる未来を探している。
 「高名な科学者がそんなことは起こらないと言えば、ほとんど間違っている」「十分に発達した科学は魔法と見分けがつかない」というような名言を数多く遺した。
 クラークは知性の作家であり、ペダントリーに富んでいる。どこにどんな比喩・格言などが隠れているかわからないと誰かが言っていた。
 この本の末尾に実現しそうなクラークによる未来地図が載っている。確かその最後には、人類は地球外生命に2100年ごろ遭遇するだろうと予測していた。クラーク自身、これを真に受けてもらってはこまると言っていたが、晩年、宇宙人に会ってみたいと言っていたり、もっと前には、彼はスーパーナチュラルなものをかなり信じていたりしていたようだ。
 最もよく発達した知性は、争いなどをしないものになると楽観的に信じていた。クラーク自身が何かでそのように述べていた。
 宇宙人を探す本格的な計画が始まっていると科学雑誌「ニュートン」の最新号に載っている。クラークの想像した宇宙人との出会いは、彼が予想した時期より早く実現するかもしれない。
 ノーベル平和賞にノミネートされ、宇宙エレベーターを構想し、その実現への実験がもうテレビのニュースで取り上げられるようになってきた。
 sirの称号を持つクラークが早くに書いたこの科学エッセイ集は万人にお勧めの一冊である。

 好きな外国人SF作家を挙げよと言われたら、私の場合、4位にくるのが、おそらくハミルトンだ。もうかなり年月がたってしまったし、スペース・オペラが多いのだが、次の四作はいつまでたっても色あせない。それほど、最初に読んだときは強い印象に残り、今でも心に残っている。

「フェッセンデンの宇宙」

 この宇宙は、実はフェッセンデンという男が実験によって作ったものだったというこれぞSFという奇想アイディアを本当らしく描いている。「あの高みにフェッセンデンがいるのだろうか」というラストの言葉が印象に残っている。惑星も恒星も星雲もそこに住む生命もみんな作られたものだったというSFの中のSFと言える奇想であり、これが本当のSFだと思ったものである。その時の印象が強く、今でも私にとって、これは上位にくる傑作短編SFである。

「反対進化」

 この世界は、進化の結果ではなく、退化の果てだったという逆説を描いていて、奇想を好むわれわれSFファン、いや、一般読者にも大いに受ける傑作である。進化だと思っていたのは、退化だったというわけである。そういえば、争いばかりしているし、便利になればなるほど、混沌とした問題の多い世の中になっているのは、「退化」なのかもしれないと本当に思ってしまう。
 80年ぐらい前に書かれた作品だが、まだまだ考えさせられる真理を含んでいるように思う。

「虚空の遺産」(the haunted star)

 原題に比べ、抽象的な日本語のタイトルが、昔、かなり気になって、ハミルトンの名前を知り始めた。ハミルトンは大きく分けると、スペース・オペラと、シリアスな内容の作品の二つに区分され、これは後者である。だいぶ古いし、もう再版されていないようだし、私自身、書庫のどこかに眠らせているのだが、いつまでも心に残っているタイトルである。

「プロ」

 SF作家の息子がロケットに乗って、月へ行くことになった。いよいよロケットの発射というときになって、発射は問題なく成功するのだが、その息子の偉業を見ながらも、父親はSF作家として「こんな状況は何回も書いてきた・・」と自分の心を鎮めようとする。宇宙飛行士として、プロになった息子の成功を素直に喜びたいという気持ちと、「おれはSF作家じゃないか、今までにたくさんのこういう話は書いてきたのだ」というプライド・矜持・自負の念がうまく描かれていて、ラストの言葉が父親の心の奥をのぞかせる。この作家はただのアイディア・ストーリーを書くだけの作家ではないということがよくわかる作品である。
 これは、もう50年も昔に書かれたが、まだ読まれ続けるのは、SF作家として描いていた物語が、自分の息子によって実現するというこの物語の発想自体がユニークだからであろう。
 エドモンド・ハミルトンはいいなあ!

 どうしても、自分がSFを読み始めたころの作家の話になってしまう。SFそのものも進化発展するはずだ。ウェルズの書いた物語は確かにもう古いかもしれないが、そのSF的発想はまだまだ生き生きとしていると思う。
 ウェルズはひとつの例だが、少し書いてみた上記の作家の発想を忘れてはいけないと思う。ユニークな常識にとらわれないSF的発想はこれからも残っていくだろう。

 さて、日本のどこかで大雨による洪水、川の氾濫が起こっている。昔から言っているが、気候は明らかに変動している。
 明るく、よいニュースは天才少年棋士の活躍と大相撲の宇良の活躍である。負けても、悪く言われないのは、今、この二人だけではないだろうか。

                   (2017・7・25)

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No.432 (Web版82号)2

石ノ森章太郎作品解説

きりとばらとほしと    DER VAMPIR

 「きりとばらとほしと」は、1962年『少女クラブ』の夏の臨時増刊号に掲載された読み切り作品である。
 この作品は、永遠の時を生きる吸血鬼リリを主人公に、表題通り“きり”と“ばら”と“ほし”という3つのエピソードを紡いだオムニバス形式で構成されている。しかもそれぞれのエピソードは“過去” “現代” “未来”を舞台に描かれている。
 それぞれの冒頭には「ヘッセ」や「ダンテ」の詩の一部を引用し、ファンタジックなイメージを高め、そして“きり”では馬車の事故、“ばら”では自動車の事故、“ほし”ではロケットの事故とそれぞれの時代を象徴する乗り物の事故シーンから物語が始まるのである。
 さらに細かく言うと、第一部の “きり” は、霧のシーンで始まり、霧のシーンで終わる。しかも全編 “霧” がベースとなる場面で構成されている。第二部 “ばら” や第三部 “ほし” でも同様のシーンで構成されている。
 リリはオーストリアで普通の人間として暮らしていたが、吸血鬼ラミーカにより、吸血一族の仲間にされてしまう。こうして永遠の命を得ることになったりりは、100年もの時を生き続けていく…。
 このように「きりとばらとほしと」は吸血鬼伝説をモチーフに、いかにも石ノ森章太郎らしいリリカルでファンタジックな世界を描き出している。しかもラストでSF的な展開を使い終結されるこの作品は、当時の少女雑誌ではかなり高いレベルにあったことが想像される。
                    福田淳一

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No.432 (Web版82号)1

日本SF大会は、アマチュアイベントとしては最古のものの一つで、1962年に第1回が東京で開催されて以来、SFファンの手によって全国各地で毎年開催されています。 静岡県では、2011年に静岡県コンベンションアーツセンター「グランシップ」で『ドンブラコンL』が開催されました。
そして2017年は、同じ会場で『ドンブラコンLL』を開催します。

正式名称
第56回日本SF大会
愛称
ドンブラコンLL
日程
2017年(平成29年)8月26日(土)~27日(日)
会場
静岡県静岡市 静岡県コンベンションアーツセンター「グランシップ」

グランドタイムテーブル
8月26日(土)
11:00 開会式・星雲賞授賞式
13:00 プログラム1
15:00 プログラム2
17:00 プログラム3
19:00 プログラム4・交流パーティ
21:00 初日終了
8月27日(日)
09:30 プログラム5
11:30 プログラム6
13:30 プログラム7
15:30 各賞授賞式・閉会式
17:00 終了

詳しい内容は公式サイトにて
http://www.donbura.com/sf56/ja/

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