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2018年5月

No.441 (Web版91号)2

SF essay (260回)

川瀬広保

星新一「気まぐれ星からの伝言」ほか

 ひまなときはついテレビを見る。テレビは一方的なので、受け身になるが、それでもいろいろと新しいニュースや最新の用語などに接することによって頭の体操にはなるかもしれない。よく見る番組のひとつに夜のNHK教育テレビの「しごとの英会話」がある。英語を学んでいない日本人の日本語的思考が陥りやすい語順や複数形を無視(?)した英語がおもしろい。日本語を学び始めた外国人の日本語がきれぎれで、何とかわかるがおかしいというようなものなのか。それを「先生」が直していって、英語らしくしていくという15分の番組だ。残念ながら、この3月で終わってしまった。また、4月から新しい英会話番組が始まるだろう。と思っていたら始まった。今度のはあまり面白くない。
 さて、4月が始まった。ついこの間までは、寒い寒いと言っていたが、もう寒くはなく、夏の気温になろうとしている。寒いどころか、もう暑い。

 星新一生誕90周年記念で『星新一の気まぐれ星からの伝言』(徳間書店)という本が出ていることを知らなくて、偶然知り、あわてて書店に注文して今日、手にすることができた。まず、ざっと目を通したら、最後の方に星新一がメッセージを載せたり、ファンジンに評を載せたりしている中に、昔の明治大学SF研究会発行の「テラ」に載せた星新一の書評を見つけた私は、思わず目を開いた。
 その昔、私は明治大学でSF研究会を創立し、早速ファンジン「テラ」を発行した。出来上がったその一部を星新一にも送った。そのころは、住所が巻末に載っていたらしい。星新一以外にも、何人かに送った覚えがある。星新一は早速、一ファンジンの書評を返してくれた。それが、今ここに載っていて、その批評文を懐かしく思い出す!
 あのころは星新一が身近だった。そして、あれから50年、この本はまた星新一をよみがえらせてくれた。その他にも、記憶に残っている有名なファンジンを数多く見つける。皆さん、星新一のところに、自分たちのファンジンを送っていたのだということが改めてわかった。そして、それらを読み、返信していたのだ。星新一はきっと楽しんでいたのだ。
 星新一には二度会ったことがある。一回目はトーコン5でサインをもらったとき、もう一度はエヌ氏の会主催で確か浜松に来られた時に、ひとりひとりが氏に一言ずつ述べたときの二回だ。私は「『夢魔の標的』のような長編をもっと書いてください」と言った。ショートショートの神様にもっと長編を書けと言ったのだから、的外れだったかもしれない。しかし、星新一はニコニコしながら聞いていた。
 こういう本が出て、今、私もこういう文を書いているぐらいだから、没後も、星新一の人気は衰えていないということは事実のようだ。

 さて、NASAの新型宇宙望遠鏡の打ち上げが成功し、第二の地球発見を目指すとのニュースに接した。われわれが住むこの地球は青くて生命にあふれている。金星にも火星にもどうやらあまり生命はいなさそうだ。他の外惑星にも同様である。
 そこで、第二の地球探しがいやおうにも始まるというわけだ。果たして何百光年もの先に地球型の惑星はあるのだろうか。これはSFではなく、現実の問いになってきたようだ。そして、さらに空想がふくらむとそこには自分にそっくりの宇宙人が住んでいるのだろうと考えたりしてしまう。星新一のショートショートにも何かあったような気がする。「われわれは孤独ではなかった」という言葉が近い未来にNASAのニュースで聞かれるようになるかもしれない。
 われわれは地球上の隣人とはつながりがほとんどなくても、百光年先の惑星に住む親戚ができるかもしれないのだ。そんなことを考えさせるニュースだった。昔はSFでしかなかったことが、現実になるようだと思うと、胸がわくわくするではないか。SFは常に時代の先に行っていたのだ。
 これは、あれこれ考えさせられるニュースだった。
 もうじき5月。浜松は祭りで一色になるだろう。400年後にも浜松まつりは続いているだろうか。そんなことも考えた。星新一については、また書くかもしれない。
                   (2018・4・22)

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No.441 (Web版91号)1

 水色のリボン

 福田淳一

 5月、石ノ森章太郎の幻の単行本「水色のリボン」が、復刊ドットコムから復刻される。この本は現在数が極めて少なく、私は発行されなかったのではないかと推測している。この本が古書やオークションなどで登場した場合、美本ならば50万円は下らないだろう。
 「水色のリボン」は、石ノ森章太郎が上京後の連載2作目として描いた作品である。
 石ノ森章太郎は、1956年(昭和31)3月佐沼高校を卒業と同時に上京し、本格的なマンガ家生活に入った。上京後の初仕事は『少女クラブ』(講談社)1956(昭和31)年7月号の別冊付録として描いた「まだらのひも」になる。上京直後はこの『少女クラブ』が作品発表の中心になっていった。続いて8月号に短編「黒猫」を発表し、上京後初の連載作品「幽霊少女」を1956(昭和31)年9月号から57(昭和32)年10月号まで1年あまり連載する。それに続けて11月号から58(昭和33)年3月号までの5回この「水色のリボン」が連載されたのである。
 石ノ森章太郎の初期作品には、映画作品の影響が随所に見られる。本作の「水色のリボン」もフェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画「道」を取り入れて、石ノ森流に仕上げた作品になっている。この「道」は、旅芸人をしている粗暴な男が、とある街で頭の弱い女を安い金で買い、イタリアの田舎町を巡業して歩くというもので、日本では1957(昭和32)年5月25日に公開された。この「水色のリボン」の連載開始の少し前の事になる。
 フェデリコ・フェリーニ監督は、映像の魔術師の異名を持ち、この「道」では物語の叙情性とヒューマニズムが溢れる名作で、フェリーニ監督の代表作の一つである。
 石森作品の多くに流れるリリカルで叙情的な描写は、このような映画作品を観る事から育まれていったのではないだろうか。
 「水色のリボン」の中でも、雨や枯葉、吹雪、月などの自然や風景を取り入れた場面を描くことで場面転換をしたり、情緒感や余韻を残す演出をしている。当時まだ発展途上であった少女マンガの中では、このような映画的な演出をした作品は画期的であった。前作の「幽霊少女」のラストシーンなども同様に、主人公が枯葉の舞う中を走り上空を飛行機が通り過ぎて行くという風景で締めくくり、余韻を残す演出で終わっている。
 この「水色のリボン」を単行本化したものが、『わかば書房』版の「水色のリボン」である。石ノ森章太郎にとって初めての単行本は、『曙出版』から1957(昭和32)年1月18日発行の「火の鳥風太郎」(B6版)で、こちらは書き下ろしの単行本になる。そしてこの「水色のリボン」(A5版)は雑誌に連載された作品をまとめた初の単行本である。
 しかし、『わかば書房』版の単行本「水色のリボン」には奥付が無い為、正確な発行年月日が不明である。だが、加筆された部分をよく見ると、瞳の中に大きく十字の星が描かれている事が多い。この様な描写は主に「水色のリボン」の後に連載された「三つの珠」1958(昭和33)年4月〜59(昭和34)年3月号に連載のヒロイン深雪の瞳の描写で使われている。
 この「水色のリボン」の連載が終了して間もない1958(昭和33)年4月4日、石ノ森章太郎のマンガの最初の読者であり、最大の理解者であった姉の由恵が亡くなった。その時のショックは計り知れないものがあったことだろう。
 その失意が癒えぬ頃、わかば書房から石森章太郎少女漫画珠玉選集の企画が持ち込まれた。そして、その1冊目として「水色のリボン」が発行されることになったのである。
 この「水色のリボン」には「ちりぬるを」という短編が併録されている。この「ちりぬるを」は、「少女クラブ」の1958(昭和33)年お正月増刊号に掲載された作品になる。
 また、この「ちりぬるを」に加筆した「白いばらの物語」の扉には「亡き姉にこの一編を捧ぐ」と記載されている。それは「亡き姉に捧ぐ」思いで編集した単行本「水色のリボン」が発行されなかったことから、その直後にこの「ちりぬるを」に加筆した「白いばらの物語」を描き、扉にその思いを記載したのではないだろうか。
 この様に、石ノ森章太郎にとって、「水色のリボン」は初めて連載作品をまとめた単行本であるが、余りにも現存数が少なく、かつ正確な発行年月日も不明で謎が多い為、ファンの間ではまさに“幻の単行本”を今回石ノ森章太郎の生誕80周年を記念し、カラーページやカバー、折り込みの「漫画寸感」や「僕のスター達」を掲載した特別ページまでも、完全復刻して特別出版として刊行される。

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No.440 (Web版90号)3

マッドドッグの話し

加藤弘一

 SFではありませんが、ワイルド7連載時にマイク✳︎ハスラーのペンネームで描かれた物語です。
 元々色っぽい女性を描くのが得意な作者(望月三起也)が少年誌ワイルドでは出来なかった酒あり、女ありのハードボイルド作品に仕立てられております。
オススメです。

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