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No.442 (Web版92号)3

 SF essay(261回)

 川瀬広保

 野球を見ない私でさえ、「オータニ・サン!」と外人アナウンサーが絶叫する日本人活躍の画面は見てしまう。
 卓球は好きなので見る。女子卓球の中国人ナンバーワンとの試合は思わず真剣に見た。スポーツを通して、世界が友好ムードになるならよいことだ。5月なのに、夏のような気温だ。事実の方がSFより奇なりということにならないようにSFにも目を向けなくてはいけない。


 さて、世に残るSFやSF作家というのは、どんなものなのだろうかと考える。100年たっても残るものはどのぐらいあるのであろうか。映画「アマデウス」の中で、サリエリが自分の人生を思い出しながら「私のオペラはしだいに演奏されなくなり、消えていった」と自嘲気味に語る場面があるが、SFやSF作家はどうであろうか。
 星新一生誕90年だそうだ。先月書いたが、バラエティブックも出た。星新一は今後もずっと、読まれ続けるだろう。夏目漱石の「吾輩は猫である」は100年後に残っているかどうか。星新一は1000編ものショートショートを書いたが、本当に残るのはわずか10編もあるかどうかだと本人自身が思っていたようだ。不変ということはなく、消えていくかもしれない。
 未来や可能性を追求するSFとしては、どんなSFも消えてもらいたくない。SFファンがその蔵書をなかなか手放さないのは、まだ何か残っているだろうと信じているからではないだろうか。しかし、蔵書は増えるばかりで、減ることはない。作品も同様である。「星新一の気まぐれ星からの伝言」はかつてSF作家とファンが近かったころの良き時代を思い起こさせてくれる。星新一ファンの中で、50年ほど昔のファングループを知っている人たちには、この新刊は懐かしさを引き起こし、それはいつまでも消えないものである。
 星新一に限らず、記憶に残るSFやSF作家は数多い。あまり考えても仕方のないことかもしれないが、この本を読んであれこれ考えた。SFの評価にもつながる。評価などなかなかできることではなく、それは今の評価で明日になればまた変わってくるだろう。
 光瀬龍や平井和正の本も出ているがそれらはまた後日に譲ろう。

 さて、今月はあまりSFの話題がない。過去に出たものの再販や新装版を追っているときりがない。私の場合、昔からクラークが好きだが、もうクラークの新しいものは出ないだろう。日本では星、小松、光瀬、筒井らだが、星新一のこのバラエティ・ブックの他には筒井康隆のSFMに連載中の思い出話などに興味を持っている。
 事実はSFより奇なりというような世相だが、もっと想像力をたくましくしないといけないのかもしれない。
 では、この辺で。
            (2018・5・25)

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