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2018年9月

No.445 (Web版95号)3

 ゾンビ再考

 林 久之

 走行中の新幹線で殺傷事件。
 忌まわしい事件であり、正面から議論すべきことは多々あるけれども、すでに新聞なりテレビなり様々なところで様々な人が論じているので、不謹慎かも知れないがここでは斜に構えて違った視点から思いついたことを語るとしよう。

 去年、韓国映画『新感染』がちょっと注目されていた。走行中の特急列車内でゾンビが発生、さあどうする、というサスペンスないしホラーだった。
 ゾンビが映画になったのは、なんとなくG. A.ロメロ『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が最初のように錯覚していたのだが、それ以前からゾンビを興味の中心に据えた映画は存在していたことに気づいたのは最近のこと。吸血鬼狩りのヘルシング教授の役で有名になったピーター・カッシングも、実はゾンビを演じたことがあった。
 死者の蘇生がホラーになるのは『猿の手』などよりもはるか昔から、それこそ世界中にある。日本でも『古事記』にもあり『今昔物語集』にもあった。吸血鬼だって何か血縁関係がありそうで、惚れた女とか家族や縁者など何か標的を見定めて襲うのが吸血鬼、無差別に襲うのがゾンビと一応区別はできるが、大した違いではない。
 という風に見えるのは現在流行している生態(?)についてであって、そもそも吸血鬼とゾンビには他に決定的な違いがあった。吸血鬼やキョンシーは死者が蘇る怪異であるのに対し、ゾンビとは生きている人間に呪いをかけて死者同然に操る術なのだった。ゾンビという呼び方自体も、ロメロの映画に登場する死者たちの動きが何かに操られているように見えたことから広まったもの。ハイチに伝わるヴードゥーの呪法は、R.E.ハワードの小説『鳩は地獄から来る』などに使われているものの、あまり一般的ではなかった。
 それなのにロメロのゾンビが注目されたのには訳がある。映画の制作された社会背景である。ベトナム戦争と人種差別を背景に、身の回りの人間がいつのまにか見も知らぬものに変貌しているという怖さを描き、ラストシーンでは人種差別ないし偏見に風刺を利かせて、配給会社が難色を示したとか。
 似たようなテーマを扱ったものでは、ジャック・フィニイ『盗まれた街』やハインライン『人形使い』があり、映画化もされている。ただし政治色は薄いようで、レッドパージを連想できないこともないが、社会現象になるほどではなかったと記憶している。リチャード・マシスンの『地球最後の男』は、「吸血鬼」という呼び方をしているけれど、本質的には現代のゾンビものに近い。最近ウィル・スミス主演で映画になったが、原作の狙いとはずいぶん違うものになっている。
 要するに、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の公開が実に時宜を得たために、ゾンビ=死者という誤解もその映像中での扱いも一気に知名度を上げたと言ってよいだろう。知名度が上がりすぎて、本来のゾンビがどういうものであったか忘れられたため、吸血鬼との違いがあいまいになってしまったのだ。おかげで、なにもゾンビとして括らなくてもよいものまでゾンビの枠に囲い込む向きがあるようで、日本製の『バイオハザード』がゾンビの怖さをパワーアップしてみせたものだから、アメリカ映画の演出にも大いに影響していると思われる。ゾンビと聞いて「何ソレ?」と反応する人はまずいないに違いない。ただしその常識が誤解によるものであるということは抑えておきたい。
 スティーブン・キングの『ペット・セメタリー』は先住民の呪法で死者が蘇生するというもので、ゾンビと吸血鬼の性質を併せ持った存在ということになるだろう。世に溢れているゾンビと一線を画すのは、群れではなく生前縁のあった人間の所にしか現れないという点であろうか。どちらかといえばこのほうが元祖ゾンビに近いのに、ゾンビと呼ばれないのは、何だか皮肉なものである。ぎこちない動きをする死者の大挙して押し寄せるイメージがあまりに広まったからであり、周り中が見知らぬものに変貌していくという、いま日本に限らず色んな国で見られる社会現象をどうしても想起してしまう。

 さて最初の方で触れた『新感染』(原題名『ソウルからプサンヘ』)の制作者に風刺の意図はあったのかどうか。あったとするとどんな社会現象に対するものだろう。大統領批判か、反日現象か、それとも親日批判か。それらをひっくるめた韓国社会に特有の何かに気づいてのことか。

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No.445 (Web版95号)2

 SF essay(264回)

 川瀬広保

 藤子不二雄Aの「81歳いまだまんが道を」を注文し、入手した。新刊が出ていることを知らないでいることが多い。書店にも並んでいないとそのままになってしまう。
 私は、藤子不二雄Aの「まんが道」のファンである。これは〈青春グラフィッティ〉と誰かが言ったがまさしく藤子不二雄の青春時代のエピソードがいろいろ綴られている。
 徹夜で作品を書き上げたとか、たくさんの注文を引き受け過ぎて、あらゆる出版社から干されたとか今や伝説になっているような有名なエピソードが多い。藤子不二雄Aは、現在84歳だ。まだ、現役漫画家として働いていることに、敬意を称したい。64年間、漫画家を続けているわけだが、亡くなった水木しげるにも言及して、自分が決して最高齢の漫画家ではなかったとある時気づいたことを認めている。「まんが道」で読んだいろいろのエピソードの文章版だが、気楽に読める。大病をして、入院したりしていたが、もともとおおらかな性格(?)のためか、大事には至っていなかったようだ。
 私は、もちろん藤子・F・不二雄のファンでもある。二人の画風はぜんぜん違う。性格も違う。二人でやってきたから、長く続けられた。もし、ひとりだったら、続かなかっただろう。18歳で高校を卒業して、そのころすでに漫画家としてデビューしていた。高校を卒業して、二人とも、新聞社や製菓会社にいったん就職したが、3日でやめたとか、東京へ行く決心をして、漫画家になるという夢を追いかけたというあたりのエピソードは興味不快。また、手塚治虫に会いに行き、プロとはすごいものだと知らされ、持参した30枚の原稿を見せないまま帰ったという有名な話もある。もし、二人とも民間の会社に就職して、そこでずっと働いていたなら、藤子不二雄も藤子・F・不二雄も藤子不二雄Aも現れなかっただろう。また、手塚治虫やトキワ荘に集まった漫画家たちとの交流がなかったら、「ドラえもん」も「まんが道」もこの世に存在していなかった。
 藤子不二雄Aが84歳でもまた漫画を描き続けているということは、すばらしいなどという簡単な言葉では言い表せない。
 「少年時代」が映画化された時の経緯も興味深い。「まんが道」や「愛・・・知りそめし頃に」が漫画による藤子不二雄Aの自伝だとすれば、この「81歳いまだまんが道を」は文章による自伝である。極真空手の大山倍達とも会っていたとは初めて知った。人との交流が多いのだ。この文庫本は一度、「まんが道」で読んだ数々の場面をまた思い起こしてくれた。著者の自伝にもなっている。読みやすい文章である。

 福田さんから、会員の訃報を知らされて、びっくりした。昔、白柳さんが亡くなったのも、55歳ぐらいだったと記憶している。長く東海SFの会に在籍していると、時々訃報に接する。健康に気をつけていたとしても、どこに何があるかわからない。SFファン活動をするとき、健康は一番だ。亡くなった方のご冥福をお祈りすると同時に、健康でいつまでもSFファン活動をして行きたい。

 森東作さんから、つい最近、「SFファンダムデータベースVER1.8」が送られてきた。いつものことだが、地道なご努力には頭が下がる。SFファンあってのSF界であり、その裾野がずっと広がっている。全国のファンジンを網羅し、それらを保存する作業は大変なものである。昔、私が創設した明治大学SF研究会のファンジン「テラ」のことを忘れていても、これを見れば鮮明に思い出すことができる。また、 PMに載せた古い文章も思い出す。

 ジョン・ウィンダムの「トリフィド時代」を買ってきた。これは名作である。昔、「トリフィドの日」というタイトルで読んだが、再訳である。名作・傑作は新版が出たり、再訳されたりする。版を重ねるというのもあるが、別の訳者によって訳しなおされるということは、それだけ読まれ続けていくということだろう。
 この作品も出だしの文で、読者を引き付ける。SFも一般文学作品も音楽も映画も出だしが大事だ。この「トリフィド時代」の出だしも不思議な雰囲気を持つ文章だった。〈たまたま水曜日だと知っている日が、日曜日のような始まり方をすると何かどこかがおかしいものである〉という奇妙な文章で始まっている。この奇妙さで話に引き込まれ、私はジョン・ウィンダムのファンになった。こういうことは他にもいろいろある。ウェルズの「宇宙戦争」の人類への強烈なサタイアを表現した出だし、クラークの「太陽系最後の日」の最初の文章は人類の責任を表している。すぐれた作家は物語をいかに初めていかに終わるかその作法を心得ているように思う。
 さて、8月ももうじき下旬だ。毎日さまざまなニュースに接していると、現実を追うだけで、SFを読み、未来を想像することを忘れてしまいそうである。そうならないようにしていきたいものだと思っている。

                (2018・8・15)

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No.445 (Web版95号)1

 『鶴書房のSF作品群』について

 中村達彦

 戦後から1979年頃にあった出版社に鶴書房があった。マンガを中心とした書籍物を幅広く手がけていたが、
 その中には藤子不二雄の「UTOPIA最後の世界大戦」がある。
 そこからSFベストセラーズと銘打たれて、第1線で書いていたSF作家たちによる、ジュブナイルSFの単行本が発売された。
 矢野徹、小松左京、中尾明、眉村卓、筒井康隆、豊田有恒、福島正美、光瀬龍等々。
 実は盛光社と言う出版社から1967年に刊行された10冊のジュニアSFシリーズが始まりである。
 もっともSF作家たちは書き下ろしで作品を提供したのではなく、連載で別紙に書いていた1〜3作の読み切り作品を提供したらしい。
 同シリーズの作品は、市民図書館や学校の図書館に置かれたものも少なくない。
 それを読んで、SFを好きになった者もいるはずだ。
 作家ごとのカラーが出ており、国家規模から学園内輪まで様々な事件が発生する。また共通のテーマとして、事件に巻き込まれた主人公(大半が学生)の葛藤や読後読者に考えさせられる課題が描かれている。
 作家たちは映像化を念頭に置いて、書いたのであろう。
 その通り、NHKで70年代に夕方、TVドラマ化された少年ドラマシリーズの原作になった話が複数ある。
 少年ドラマシリーズは、その良質なドラマ作りから、過去に何度か書籍で取り上げられてきた。SF以外の作品もあるし、海外の作品を取り入れたものもある。
 この少年ドラマシリーズでドラマ化された場合には、原作と比べてみると、細部に違いがある。
 初期に発表された作品と作者は以下の通りであるが、知っている作品もあるだろう。中には、少年ドラマシリーズの後に、現在まで何度も映像化されているものもある。
 光瀬龍「夕ばえ作戦」
 眉村卓「なぞの転校生」
 矢野徹「新世界遊撃隊」
 中尾明「黒の放射線」
 福島正美「リュイティン太陽」
 筒井康隆「時をかける少女」
 豊田有恒「時間砲計画」
 北川幸比古「すばらしき超能力時代」
 内田庶「人類のあけぼの号」
 小松左京「見えないものの影」
 このうち眉村卓の小説は、鶴書房以外のSF作品も少年ドラマシリーズになっており、「まぼろしのペンフレンド」「未来からの挑戦」「幕末未来人」があげられる。また、79年にドラマ化された筒井康隆の「七瀬ふたたび」は、ある超能力者一団の運命を扱っているが、傑作の声が高い。こちらも少年ドラマシリーズの後、現在まで何度も映像化されている。
 78年に入ってから、当時のSFブームの流れに乗って、以下の続刊が追加されていく。
 石山透「続・時をかける少女」
 福島正美「異次元失踪」
 眉村卓「ねじれた町」
 光瀬龍「明日への追跡」「消えた町」
 石川英輔「ポンコツタイムマシン騒動記」「ポンコツロボット太平記」
 宮崎淳「学園魔女戦争」
 今日泊亜蘭「怪獣大陸」
 瀬川昌男「眠りの星レア」
 豊田有恒・石津嵐「続・時間砲計画」
 荒巻義雄「五万年後の夏休み」
 中尾明「いて座の少女」
 携帯電話もネットも実用化される前に書かれた話ばかり。当時と現在とは、科学技術に格差があり、学生の好みも雰囲気も違いが多い。
 中でも、印象深い作品は、「異次元失踪」と「ねじれた町」の2本。
 「異次元失踪」は、学生が行方不明となった顛末を担任の教師の視点で描いた話。福島正美は日本SFの普及に努力したが、その事実も踏まえた上で、他の本と異なる意外な結末が待ち構えている。
 「ねじれた町」は、城下町に転校した少年がその町を支配するものに不思議な力を与えられる。その力を頼りとする人々に担ぎ出されるが……。力作だが、今まで映像化されたことはない。
 鶴書房は諸般の事情により、79年に倒産した。
 だが同年。
 高千穂遥「異世界の勇士」
 川又千秋「夢の戦士」
 石川英輔「ポンコツUFO同乗記」
の3冊を発売した。
 お三方とも、当時、新進気鋭の作家であり、SFベストセラーズがこの後も書き進められれば、更に新人の発掘が進められたかもしれない。
 SFベストセラーズは、以前から海外SFにも眼を向け、海外の作品も和訳出版されている。中でもベン・ボーヴァ作「星の征服者」は、銀河帝国に地球を盟主とする国家連合が戦いを挑む、壮大なスペースオペラとして注目される。
 鶴書房から発表された作品の大半は、角川、朝日ソノラマなどの他社の文庫から、他の作品と共に再度出版され、日本SFの一翼を担った。
 SFも冬の時代が続いているがSFベストセラーズの次作に相当するシリーズは、生み出されている。
 5年ほど前、岩崎書店から21世紀空想科学小説というSFジュブナイルの読み切り(全9巻)が発表されている。
 第一線で書いている作家たちの力作揃いであるが、SFファンには、是非一読を願いたい。

 

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