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2019年8月

No.456(Web版106号)3

ご隠居の時代

佐竹玄吾

ご隠居は物知り
ご隠居会議という集まりを主催している。月に一度六文銭という居酒屋に集まり酒を飲み交わしながらの清談を事としている。
竹林の七賢ならぬ6人の隠者たちが集まっている。金原峰雄(旧姓・松井)、初村良明、福田淳一、小倉康裕、金子雅胤と私の6人である。6人が一堂に揃うことは少ないが、3人から4人は集まる。かつては木村茂、故新間策雄なども参会したことがあった。
隠居にしても隠者にしても世事から離れ名利を超越して高尚な知的談話を楽しむ者たちのことでまさにそれにふさわしい人たちが集まっている。重ねていうならば、落語に出てくるご隠居も町内の物知りとしては八っつあん熊さんから一目置かれている存在なのである。
ご隠居会議と酒は切っても切れない縁なのだが当初からのメンバー初村は全くの下戸であるし、この会合を一度も休んだことがない(と思われる)小倉も病を得てからはご隠居会議の席では一滴の酒も口につけていない。二人はノンアルコールの飲料で喉を潤しながら話に加わっている。ノンアルコールといえば金子は酒を飲めるのだが毎回ノンアルコールビールを飲んでいる。彼は車を運転してくるので飲めないだけなのだが。6人のメンバーのうち3人が酒を飲まないのに居酒屋で会合を続けるのは何故か。それはご隠居会議の歴史を振り返れば分かることである。

SF大会前夜
1992年、私は浜松コンベンションビューローという財団法人で働くようになった。この組織は浜松市の外郭団体で事業の目的はコンベンションと呼ばれる大きな会議や大会を浜松へ誘致しその開催の支援をする事だ。浜松市は1994年のアクトシティ浜松オープンに照準してコンベンション誘致に力を入れるためにコンベンションビューローの充実を図った。そういう状況に私は巻き込まれたのである。
私の仕事は全国から参加者を集める大規模なコンベンションの主催者や事務局のキーマンと会いアクトシティ浜松をコンベンションの開催会場として選択してもらうためのセールスをする事だった。
営業ツールとしてコンベンション主催者事務局所在地リストと毎年のコンベンション開催予定情報というのがあってそのリストからめぼしいコンベンションの主催者のアポイントを取りセールスに出かけるのであった。大規模なコンベンションの主催者事務局はほとんどが東京にあった。だから営業のために月に一度は東京へ出張していた。
そのコンベンション開催情報の中に日本SF大会も掲載されていた。それを見てアクトシティ浜松がオープンしたら日本SF大会を浜松で開催できるかもしれないと直感した。
そのアイディアを東海SFの会の誰かに伝えたのか今となっては思い出せない。多分酒を飲んでいる席で「SF大会を浜松でやろう」などと煽ったのかもしれない。

酒とSFの日々
バブルがはじけて世間の風が冷たくなったあのころ私のSF心も冷えていた。仕事が忙しいという理由で会合にはほとんど出席しなくなっていた。ただ単に酒好きだった私は酒を飲む機会だけは参加していたのだが。東海SFの会の中でも年長の連中は例会ではなく別に集まる機会を作っていた。松井という酒好きを筆頭に木村茂とか野村、益山といった人たちだ。
酒を飲まずにSFの話なんかできるかよと自虐的なジョークを半ば本気で言いつつ、例会で真面目にSFしている若い会員たちとは一線を画する東海SFの会長老派として存在していた。そして日本SF大会の浜松開催の話はこんな酔っ払いの与太話のようなところから湧き上がったというまことしやかな裏話である。

まつりのあと
日本SF大会はまなこんはそれまでのローカルコンで培ったネットワークを活かして地元のSFファングループの協力を得ながら準備が進められていた。実行委員会は東海SFの会の初村が担ったが実行委員会の事務局長はSFファンクラブ「好遊者」のメンバー小倉康裕だった。実行委員会の柔軟な構成がはまなこん成功の要因の一つだったのかもしれない。実行委員会の会合のあと、小倉事務局長は主だった連中を引き連れて飲みにいくことでコミュニケーションの円滑化を図った。あるいは単に酒が飲みたかっただけなのかは定かではないが。いずれにしても小倉と長老連中との酒を介した付き合いは深まっていった。小倉が酒に強いこだわりを持っていて特に日本酒とそれに合う肴についての蘊蓄は相当に金を使っていると思わせるものがあった。
私は日本SF大会はまなこんが成功裏に終わり、アクトシティ浜松のコンベンションの歴史に名を刻むことができたことに満足していた。
ご隠居会議が小倉と松井の二人を中心に動き出していたことを私は知らなかったけれども、はまなこんの余韻を愛でるように酒を飲む機会が定式化していったのではないかと推測している。

未来世紀ご隠居
私は相変わらずいい加減で、酒好きと言いながらご隠居会議には出たり出なかったりであった。会場も幹事の気まぐれで変わったりしていたのだがいつしか出世で日本酒を飲んで駅馬車でウィスキーをというパターンができていった。居酒屋の出世は六文銭に名前を変えた。駅馬車のマスターも亡くなった。いろいろ変わっていく世の中である。
そんなあるとき私とご隠居会議の関係に大きな変化が起きた。それはご隠居会議の主催者の松井が急遽中国へ出稼ぎに行くことになった。松井は私に「ご隠居会議を引き継いでくれ」と一言言い残して慌ただしく上海へ旅立っていった。このような経緯で今私がご隠居会議を主催しているのである。
思い出してみればいろいろあったなと感慨に耽る。たかだか酒を飲むだけなのに四半世紀の歴史を刻んでいる。これからも同じように続くのか、そうではないだろう。長く続けば飽きも来る、酒を飲むだけならとうに終わったコンテンツだ。
今取り組んでいるのは古典SFについて語るというテーマを設定して飲むことだ。まあ、懐古趣味といえばそうだが最近めっきりSFの話をする機会がなくなったので周回遅れでやってみようという魂胆だ。周回遅れは実は最先端なのだが時流の早い遅いはこの際関係ない。
SF小説をキーワードに知的会話を楽しむというのもお洒落じゃないか。

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No.456(Web版106号)2

SF essay(275回)

川瀬広保

 もうじき、8月。時間は矢のように過ぎる。今は、梅雨の季節で空はどんよりと曇っている。ハーラン・エリソンの「危険なヴィジョン」を買った。歳をとると、夢がなくなる。夢のある発想がなかなかできなくなる。発想、夢、想像力がこの世を動かす。SFはそういうものだ。現実と空想との差はそのうちなくなるのではないか。魔法とか空想はSFの原点だ。

 SF以外では「自己肯定感を取り戻す方法」「うつのツボ」といった本を読もうとしている。どちらも高田明和の本である。最近、高田明和はNHKの「チコちゃんに叱られる」に出演していた。さすがNHK。専門家を出演させている。

 文明が発展すると、心が病んでうつになったり、精神的に病んで大変になる。そこでこれらの本は著者自身の経験から納得させられる内容を持っている。遠未来では、人々は芸術にのみ日々を暮らし、雑事には心を動かされない。面倒なことは、AI(AIという言葉は使っていないが)にやらせて、人間は芸術を大事にして暮らしている。そんな一節がクラークのSFにあったような気がする。

 日照時間が極端に少ないとテレビは伝えている。また、異常気象も伝えている。異常気象がなかったときはないように思うが、人の健康にも影響を与える。

 今月はこのぐらいのことしか書けない。また、来月。
                  (2019・7・15)







 


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No.456(Web版106号)1

「100分で名著」についてあれこれ

by 渡辺ユリア

 7月の初め、新聞の番組表を見て私は驚きました。<100分で名著>で小松左京「地には平和を」の文字を。予約しました。7月は小松左京スペシャルと題して 1地には平和を  2日本沈没  3ゴルディアスの結び目  4虚無回廊  が放送されるとの事です。司会は伊集院 光さんと安部 みちこさん。そしてゲストに評論家の宮崎 哲弥さん。「地には平和を」の内容とは・・1945年10月 15才の少年兵、河野康夫は長野県の山の中を歩いていた。その世界では、大東亜戦争は終わっていない。米英軍は飛行機で本土を爆撃している。8月15日の天皇陛下のお言葉の放送は阻止され、放送局は軍に乗っ取られ、日本政府は軍人が総理大臣になった世界。戦争はまだ続いている世界。そして10月、再び本土は飛行機などで爆撃されている。
 本土防衛隊の黒桜隊の一員、河野康夫は、本土決戦にそなえた大本営と皇居があるという信州をめざして山の中をずーっと歩いている。追手の爆撃機がもうじきやってくる。康夫は自決をしようと決めた時、そこにtマンと呼ばれる男が康夫の前に突然現れた。tマンは「いいかい、君。この世界は間違っている。戦争は終わったんだよ」と言う。そして康夫の前に白い大きな布を掲げ、そこに戦争の終わった世界の映像を映す。「これが本当の歴史なんだ・・・」とそして自分は時間管理局の捜査員だと告げる。だが、康夫は「お前らにそんな事を言う資格はない。」「もしそうなら僕たちは何のために戦い、そして死んでゆくのか」とtマンに問い詰める。・・・ここで作者の小松左京はSFでしか表現できないものを小説で私たちの前につきつけたのではないか・・・と私は思っています。それはヒストリカル・イフとパラレルワールド もし、1945年8月15日に戦争が終わらなかったら・・・と言うテーマ。そしてそこで人間はどんな事を想い、どう行動するのか・・・と言うモチーフ。
 ここで1945年8月15日当時、小松左京さんは14才で終戦を迎えたそうです。康夫とほぼ同じ世代。13才、14才の頃はいずれ自分も戦場に赴くことになるだろう、と言う予感をもっていたかもしれません。だからこそ康夫の心の叫びが生々しく読者に伝わってきます。この作品は1961年に発表されました。高度成長期の日本人にむけて。我々は戦後、何を手に入れ、そして何を失ったのか・・・それをSFの形で私たちの前に提示したのではないか、と私はおもいます。
 では、この辺で。                
             yullia 2019.7.10

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