No.464(Web版114号)4
福田淳一著
「石ノ森章太郎とトキワ荘」より
藤子Ⓐの「トキワ荘青春日記」によると、石ノ森の姉由恵も、上京した石ノ森を心配し、世話をするため1956年(昭和31年)5月15日(火曜日)上京した。この事から、石ノ森が5月4日「トキワ荘」に入居して、10日ほど後に姉の由恵も上京している事が分かる。
由恵は1935年(昭和10年)4月5日生まれで、1938年(昭和13年)生まれの石ノ森とは3歳違いのように見えるが、石ノ森は1月25日の早生まれであるため、学年では2つ違いになる。よって、石ノ森は「トキワ荘」に入居した時18歳で、誕生日を迎えていた姉の由恵は21歳であった。「手塚治虫とトキワ荘」では、数多くの参考文献を使いよく調べられているが、本人が「小説・トキワ荘・春」の中で”3歳違い”と書いていることからか、由恵が3歳年上と書いていると思われる。
また、由恵は病弱で、幼い頃から小児喘息の持病を持っており、藤子Ⓐの「トキワ荘青春日記」には、6月9日(土曜日)に喘息の発作を起こし、その後すぐに帰郷した事が記載されている。おそらく東京の空気が合わず、調子を崩していったのだろう。早々に郷里に帰る事になってしまう。よって由恵が最初に上京した時は、「トキワ荘」に1ヶ月も居なかった事になる。だが7月31日には体調がよくなったと、安孫子に暑中見舞いが届いている。その後由恵は「トキワ荘」と郷里を行き来するようになっていく。
赤塚不二夫は、1956年(昭和31年)6月7日発行の「嵐をこえて」(曙出版)という貸本マンガ似てデビューした。
この作品は、当時共に漫画家を目指していた横田徳雄(よこたとくお)と共同で住んでいた西荒川の下宿にて描かれたものである。
その発行日から入稿したのは4月〜5月頃と思われるが、この時期は石ノ森が上京した頃と重なる。最初に住んでいた下宿で倒れていた石ノ森を、赤塚がこの下宿に連れて来た頃だ。この同時期に、ここで石ノ森は上京後の初作品「まだらのひも」を描き、赤塚もデビュー作の「嵐をこえて」を完成させようとしていたのではないだろうか。
その根拠は、「嵐をこえて」の見返し部分のイラストを石ノ森が描いているからである。石ノ森は赤塚のデビュー作から協力していたことになり、その絆の強さが感じられる。
その後も、赤塚は同じ曙出版から二作目の「湖上の閃光」(曙出版)1956年8月発行という貸本用のマンガを描いている。赤塚はギャグ漫画を目標にしていたが、このような少女マンガしか描かせてもらえなかった。
そして三作目の「嵐の波止場」は「トキワ荘」へ移った後に描かれたのだが、気乗りがしないため作品を描くテンポは遅くなっていた。そこで石ノ森は「あと二日で仕上げようぜ」と勝手な締め切り日を宣言したという。
この単行本「嵐の波止場」は、「狙われたコケシ人形」と「腕時計紛失事件」、そして「あらしの波止場」という三つのエピソードで構成されていた。作画作業は、この「あらしの波止場」の途中まで進んでいたのだろう。残った部分のバックは、風と雨の描写を多用し、長谷も手伝って完成させた。この「あらしの波止場」を見ると、後半は格段に構図やタッチが石森調になっている。
そして、この本も見返しを石ノ森が描いている。この大胆で斬新な構図には驚かされる。
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