めも(判で押したよう)
中井 良景
◯ 判で押したよう
プロ野球ドラフトの指名があり、複数の若い選手が記者のインタビューに答えていた。どんな選手になりたいかの問いに若者は、みんなに「夢を与えられる選手になりたい」とか「感動を与えられる選手になりたい」と答えていた。プロ野球ドラフトだけではない。サッカーでも、ラグビーでも、陸上競技でも、水泳でも、記者に問われるとほとんどの選手は同じような答えをする。
それを聞くとへそ曲がりの私は、いつも、お前らに夢も感動も与えられたくない、と思う。夢や感動は与えたくて与えられるものではないし、与えられて嬉しいものでもない。若い彼らは、その昔、憧れの選手のプレーから夢や感動を貰ったのかも知れない。しかし、それはあくまで受動側が勝手に夢を貰い、感動しただけで、プレーしていた選手が夢や感動を与えようとしたわけではあるまい。
夢や感動を与えたいという答えは、今や一種の流行で、若い選手はみんな同じように答えることがカッコいいと思っているのかも知れない。あるいは、身近な誰かからそう答えるようアドバイスされているのかも知れない。思考停止の金太郎飴だ。
たまには、別のコメントを聞いてみたい。「強い選手になってたくさんお金を稼ぎたい」、「有名になって綺麗な女優(またはハンサムな芸能人)と結婚したい」、「世界一の選手になって歴史に名を残したい」、何でもいいじゃないか。大言壮語は嫌われるが、どんな選手になりたいかと訊かれただけだから、答えは自由だ。
私ならば何と答えるだろうか。「大金を稼いでトム・ピリビのようになりたい」くらいか。気の利いた答えが出なくて、結局「夢や感動を与えられる選手になりたい」と言ってしまいそうだ。
◯ 判で押したよう(その二)
“開けない夜はない”
災害にあったり、不幸に見舞われたりすると、必ず誰かが被災者にそんな慰めの言葉を掛ける。
それを耳にするたびに、私は小松左京の短編「夜が明けたら」を思い出す。寒い季節の夜中に地震で飛び起きた人たちが夜明けを待ちながら会話をする物語だ。動力が止まって灯りもない中で、そのうちいつもの生活に戻るだろうと話している人々が、そうではないということに気づく、という恐ろしい話だ。
正常性バイアスを疑わなくては、と思わせられる。諸行無常の世にあって、何があっても不思議ではないという感覚を思い出させられもする。百人に一度、千年に一度という言葉が一般的になったが、これまで経験したことのない出来事のことも常に意識する必要がある。当たり前だが。
◯ 判で押したよう(その三)
脱ハンコ社会が進んでいるようだ。ある報道では、書類から押印欄が九十九パーセント消えるという。確かに単なる申請書や届出書にハンコは不要だ。必要なのは、銀行での現金払い戻しのように、届け出た印鑑と払い戻し者の意思疎通としての印影を照合する場合ぐらいだ。これによりハンコ屋の売り上げが落ちそうで困っていると耳にしたが、それはあり得ない。ハンコを押すケースや回数は減るが、押印の機会がなくなるわけではないから、これまでと同じように誰でもハンコ(印章)を保有する必要は残る。
“判で押したよう”(同じことの繰り返しで変化のないさま)という言葉は、脱ハンコの流れで廃れて死語になるかも知れない。代わって、電子署名がらみの言葉が生まれる可能性はある。
二◯二◯年一一月
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