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No.472(Web版122号)2

 冬と修羅

 初村 良明

 宅八郎(本名:矢野守啓)が死んだ。新聞にカラー写真入りで訃報が載っていて、今更ながら大きな影響力を持っていたことを認識した。Wikipediaにも彼の項があり、活動の概要はそれでも把握出来る。私は、彼のコラムやエッセイを読んでいないし、タレントとしての活動もほとんど知らない。知っているのはヤノくんとしての彼だけだ。Wikiに書かれていない彼との交流を思い出してみたい。
 彼の姿を初めて見た(会ったわけではない)のは、一九七八年八月だ。「石森章太郎ファンクラブうなぎ支部」が、アニメの「佐武と市捕物控上映会」を開催したので、私はそれを観に行った。彼もその会場に観客として来ていた。その時は声を掛けあうわけでもなく互いに知らないまま別れた。
 翌年九月、彼は地元のまんが評論サークル「浜松まんが文化研究会」の例会に顔を出した。彼はまだ高校生で「浜松南高等学校漫画研究部」の部長を務めていた。例会で話をするうちに親しくなり、彼から、編集中の自主制作特撮八ミリ映画があるから観に来てほしいとの申し出があった。一九八◯年四月、彼のお宅にお邪魔した。八ミリ映画を観て驚いた。ブルーバック合成や弾着を駆使した本格的特撮映画が出来上がっていた。
 この時、ヤノくんは高校三年生だった。趣味にのめり込んで、受験勉強が疎かになっていたようだ。あとから知ったことだが、「石森章太郎ファンクラブうなぎ支部」のメンバーは、ヤノくんの両親から、息子を“悪の道”に誘わないように、と釘を刺されていたらしい。私はそんなことは知らなかった。知らずに、ヤノくんに、受験生なんだから受験勉強をしっかりするように、とアドバイスしていた。それが功を奏したのかどうかは別にして、その後彼は頑張って受験勉強をするようになったようだ。彼のお母さんが、息子が初村さんの言うことなら何でも聞いて、受験勉強をするようになった、と嬉しそうに話し、夕食を用意してくれた。
 その後、ヤノくんは、わが家にも何度か遊びに来た。若干心配ではあったが、趣味と受験勉強を上手く両立させているようだった。私の妹も弟も彼と親しく話をするようになった。
 その前年の七月、私は地元のまんがサークルメンバーと一緒に、「浜松まんがファンダム」という活動を始めた。同ファンダムは、浜松市民会館の会議室で、まんがの話題を含む他愛のないお喋りや情報交換をするのがメインの活動だったが、ヤノくんの参加により、アニメーション映画の上映も行うようになった。彼の直接、間接の声掛けにより高校生も参加するようになっていた。高校生が相手では、お喋りや情報交換だけでは間が持たなかったことも確かだ。当初、十数人の参加者だけでこじんまりとアニメ映画を観ていたが、せっかくだからもっと大勢の人に観てもらおうと、少し大きな上映会を行うことになった。ヤノくんはアニメーションに詳しく、岡本忠成やベルギーの作家ラウル・セルヴェ、カナダの作家ノーマン・マクラレンの作品を選んできた。ただ、上映作品がテレビで放映される作品とかけ離れていて、参加者の好みとずれていたらしく、上映会そのものの評判は芳しくなかった。
 一九八◯年五月、浜名湖畔の舘山寺荘で「星コン・3」が開催された。事前に主催の「エヌ氏の会」担当者から「東海SFの会」へ八ミリフィルム映写機の操作が出来る者がいれば手伝ってほしいと連絡が入り、何故か私に白羽の矢が立った。星(新一)さんが参加すると聞き、私は気楽に引き受けたが、これまで八ミリフィルム映写機など触ったことがない。あわててヤノくんに操作を習って、当日は何とか星さん原作の「花ともぐら」ほかの八ミリ映画の上映をこなすことが出来た。
 同年一一月、地元で初めてのSFコンベンション「SFクリスマスin浜松」を開催した。ヤノくんの作った特撮八ミリ映画を大勢の人に観てもらおうと借りてきていたが、私の大学時代の友人が弁士を務めた関西SFファンダムの記録映像(MIYACON等)のフィルム上映がウケて、それが長引き、残念ながらヤノくんのフィルムは上映出来ずに終わってしまった。
 一九八一年四月、ヤノくんは受験勉強を頑張った甲斐があって、めでたく大学生になった。彼のお父さんがわが家までわざわざお礼に来た。彼は帰省すると私の所へ必ず連絡してきた。その都度一緒にお茶を飲んだ。大学生になりたての五月の帰省時、精神的にかなり参っていると感じた。五月病だったのかも知れない。彼の話をしっかり聞き、何とか気分を盛り上げようと努めたことを覚えている。彼は東京の大学に通っていたが、私の友人たちが活動する関西のサークルに何度も遊びに行っていたようだ。
 浜松で開催したローカルSFコンベンション「HAMANACON」にも彼は参加した。音源やアンプ、電飾を持ち込み、部屋をひとつ使って、当時流行っていたチェッカーズのような格好で場を盛り上げてくれた。
 一九八五年、彼は大学を卒業し、互いに連絡を取ることも少なく疎遠になった。
 ある時、私はたまたまテレビの深夜番組で、戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏がヨット指導をしているシーンを観た。指導を受けていたのは髪の長い眼鏡を掛けた痩せぎすの男だった。ウエットスーツに身を包み波打ち際で戸塚氏のしごきを受けていた。妻とふたりで笑いながら観ていたのだが、ヤノくんに似ているねと話しているうちに番組は終了してしまった。
 それから暫くして、彼はオタク評論家の宅八郎としてメディアを賑わすようになった。しかし、そこからの彼を私はほとんど知らない。
 一九九三年八月、大阪で「第三十二回日本SF大会DAICON6」が開かれた。地元の仲間十数名と貸し切りバスで会場へ乗り込んだが、大会一日目の夜、私は新幹線で静岡へ戻り、翌早朝、静岡だいいちテレビに出向いた。地元出身の有名人宅八郎の友人として、日本テレビの「24時間テレビ」に出演するためだ。本番前には彼と顔を合わせず、本番でサプライズという演出だった。生放送である。せっかくだから二年後に開催する日本SF大会をPRしようと、大きなポスターを抱えて本番に臨んだが、ポスターを開きかけたところでカットされてしまった。放送終了後、ヤノくんの愛車ジャガーに乗せてもらって、彼と静岡市内をドライブした。早めの昼食をとったあと、ヤノくんと別れ、私は新幹線で大阪へ引き返した。再度会場入りして、DAICON6のエンディングのステージに上がり、二年後の「第三十四回日本SF大会はまなこん」をPRした。
 同年一◯月から一年半、私は仕事で品川へ定期的に出張するようになった。ヤノくんは宅八郎として芸能界で大ブレイクしていた。そんな中で彼と落ち合って食事をした。ホテルのレストランに入った時、ヤノくんは長髪を帽子に隠して変装していたが、見る人が見れば分かるようで、オーダーを採りに来たウエイトレスが彼に向かって“頑張ってください”と声を掛けてきた。
 一九九五年八月一九日、二◯日、仲間とともにアクトシティ浜松を借り切って「第三十四回日本SF大会はまなこん」を開催した。ヤノくんには、24時間テレビに出演した時、参加を了承してもらっていた。問題はどんな出番を用意するかだ。電話で何度か打ち合わせたが、なかなか内容が固まらなかった。彼は直前に、自身のマンションで愛車アルファロメオが絡む事故を起こして、週刊誌に興味本位の記事を面白おかしく書かれていた。その車を展示イベントホールに展示するということを考えたが、車の展示は消防法により、ガソリンを抜いたうえで様々な手続きが必要だということが分かり、残念だったが諦めた。
 当日、ヤノくんは大会スタッフルームに来てくれた。スタッフをしていた私の弟がヤノくんと話をした。弟が“遊びに来ていた姉(私の妹)が昨日一人息子と一緒に大阪へ帰ったばかり”と説明したら、妹にもその息子にもひと目でいいから会いたかった、とすごく残念がったそうだ。大ホールで浜松交響吹奏楽団のコンサートを行った。妻が浜松交響吹奏楽団をバックに「天空の城ラピュタ」の主題歌「君をのせて」を歌った。ヤノくんは最前列に陣取って観ていた。
 アクトシティ浜松での一日目のプログラム終了後、ヤノくんを誘って新居町の清風荘の合宿企画を見に行った。車は別だったので詳細は不明だが、帰りに彼の愛車アルファロメオは故障してJAFを呼んだそうだ。
 数年後、東京に出張した際、ヤノくんに連絡して一緒に食事をした。彼は不健康な生活をしていた。食事も不規則で、日に一食の場合が多いと言っていた。焼肉店に入ったが、彼は肉ばかりを食べて野菜には見向きもしなかった。歌舞伎町でホストをしているとも言っていた。彼と会ったのはそれが最後だったかも知れない。暫く年賀状が届いていたが、それがなくなり、電話番号もメールアドレスもいつの間にか変わっていて連絡が取れなくなった。彼のブログ「復讐山脈」も更新されなくなってから開いていない。
 今回の訃報に接して、あちこちのネット記事を覗いた。彼の死は、弟さん(矢野雄康氏)から発表されたようだ。その昔、ヤノくん本人から、弟と喧嘩して家族の縁を切られたと聞いたことがあった。雄康さんが語ったというネット上の文章からは、仲が良いように見えるので復縁したのかも知れない。また未公表だったが結婚もしていたらしい。奥様やご家族には心からお悔やみ申し上げる。幸せな結婚生活だったことも願わずにはいられない。
 オタク評論家というと中森明夫を連想する人が多いかも知れないが“オタク”を日本中に目に見える形で理解させたのはヤノくんだ。彼のスタイル、行動、言葉には、何者をも屈服させる強烈なインパクトがあった。彼はそれを緻密な計算の上に成り立たせていた。
 二年前にも若い友が逝った。ヤノくんが高校時代に作った八ミリ映画に登場するバルタン星人やメカゴジラの造形を担当した仲間だ。若い友がいなくなるたびに思う。こういうことこそ順番でなければと。

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