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No.488(Web版138号)3

 まだ続くまんが道

 中村達彦

 マンガ家藤子不二雄Ⓐ急死。昨年からマンガ家の訃報が相次ぐが。享年88歳。直後に同じトキワ荘のよこたとくおも亡くなった。
 富山県生まれ、少年時代からマンガを描き、出会った友人と藤子不二雄のコンビを組み、多くのヒットを飛ばし、「怪物くん」「忍者ハットリくん」などを描く。一方、人間の心を突いた作品も得意とし「笑ゥせぇるすまん」、趣味のゴルフから生まれた「プロゴルファー猿」のヒット作もある。
 自分が影響を受けた人に、手塚治虫と相棒の藤子・F・不二雄を挙げており、2人に会わなかったらマンガ家にならなかったと言っている。手塚治虫の「新宝島」にショックを受け、高校卒業後、藤子不二雄Ⓐは叔父が社長をやっている新聞社に勤め、仕事は楽しかったが、藤子・F・不二雄に勧められ共に上京マンガ家を目指すことに。この時、叔父は激怒したが、後日、会社の方針の違いから叔父は会社を辞めており、その後も新聞社にいたら気まずいことになっていたと、上京を促した藤子・F・不二雄に感謝している。
 88年に藤子不二雄のコンビを解消したが、藤子・F・不二雄とは亡くなるまで仲が良かった。それぞれがヒット作を遺している。川崎市の藤子・F・不二雄ミュージアムには、藤子不二雄Ⓐの姿もあったそうだ。
 2人はマンガの方向性の違いが出ていた。藤子・F・不二雄は、子供を対象にしたかつSFの作品が多く、タッチも細い線画を中心としたが、藤子不二雄Ⓐは、大人を対象に、深い心理面まで掘り下げた作品が多く、アナログなタッチを特徴とした。それぞれ白い藤子、黒い藤子と称された。
 藤子不二雄Ⓐは、「笑ゥせぇるすまん」など結末がブラックの作品も多く、日頃、人間観察を欠かさなかったそうだ。同時に交友関係も広かった。藤子・F・不二雄は子供を対象にしたが、大人向けのメッセージを入れていた。2人のマンガは相通じていたのだ。
 しかし内容はブラックだが、藤子不二雄Ⓐはエピソードが進むにつれて、良い結末もあるマンガもあった。レンタルビデオ屋の主人が主人公で、ビデオを観た者が不思議な体験をする「憂夢」は、「笑ゥせぇるすまん」の後、90年代に長く連載されたが、ラストはゲストの客がひどい目に合う結末ばかりでなかった。注目されなかったのは惜しまれる。
「笑ゥせぇるすまん」のアニメも後半では、ゲストがひどい目に合うパターンばかりではなかった。
 72年〜75年に連載された「魔太郎がくる」、いじめられっ子の主人公がいじめた相手を超能力でやっつける話で、密かに映像化されないかと思った。97年に同時期連載されオカルトブームの一翼を担った「エコエコアザラク」「うしろの百太郎」が深夜実写化され、「魔太郎がくる」も同じく実写化されるかと思ったが、とうとう映像化されなかった。「忍者ハットリくん」「怪物くん」など、アニメ化のみならずジャニーズ俳優に主演された作品もあるが。
 藤子不二雄Ⓐは子供の頃いじめられっ子で、コンプレックスからマンガを描くようになったが、実際のいじめがマンガで描かれているより陰惨で根深く、「魔太郎がくる」映像化がいじめを増長することを恐れたと言われている。「魔太郎がくる」の後、描かれた「ブラック商会変奇郎」も面白かった。
 代表作の1つが「まんが道」。藤子不二雄の自伝的作品で、クリエイターのバイブル的作品でもあろう。藤子不二雄Ⓐの視点で、何度も雑誌を変えて描き続けられ、「愛…しりそめし頃に…」が2013年の一応完結した。
 作品では、2人が入ったアパートトキワ荘や手塚治虫や石ノ森章太郎(石森章太郎)、赤塚不二夫との日々が描かれている。
 石ノ森章太郎とは深い親交を結び、同時にその才能や早いスピードに驚愕したそうだ。
 手塚治虫が失踪、マンガが落ちそうになり、藤子不二雄や石ノ森章太郎、赤塚不二夫が手塚のタッチを真似て原稿を完成させるも、九州から手塚がマンガを送ると言う実話も紹介されている。その時、九州で手塚を手伝ったのは、松本零士や高井研一郎ら。そう言えば藤子不二雄Ⓐがトキワ荘時代に描いたSFマンガ「ロケットくん」は、後年松本がタッチした「惑星ロボダンガードA」と似ているところがある……。
 月日は流れ、石ノ森は昭和40年代に、実験的作品「ジュン」を発表するが、手塚はその作品を賛辞するどころか酷評。それを知った石ノ森はショックを受けた。
 実は手塚はライバル視するマンガを賞賛しつつ酷評批判するところがあり、前にもそれで吊し上げられたことがある。
 石ノ森は「ジュン」を打ち切ろうとするが、手塚は訪問し、自らの行為を謝罪した。
 この事件は、石ノ森が逝去した98年にTV番組「知ってるつもり」で取り上げられ、両者をよく知る藤子不二雄Ⓐが出演した。
 そこで「僕はこのことを知った時、自分から謝りに行った手塚先生も、許した石ノ森君も偉いと思った。どちらももっと好きになったんだ」とコメントした。
「まんが道」は、手塚治虫がマンガについて語るところでラストを迎えた。
 藤子不二雄Ⓐは、自分の最後のマンガで、トキワ荘の話を準備していたそうだ。
「まんが道」の中で、藤子不二雄を含むマンガ家たちが、夜の橋を流れる川を見ながら、こんな雰囲気をマンガにできないか、これからいろんなマンガが出て来るなどと語り合っている。それから70年近く経った現在、その通り、いろいろなマンガが登場している。
 藤子不二雄Ⓐが亡くなった後も、「まんが道」は続いているのだ。

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