No.505(Web版155号)1
「寝煙草の危険」のことなど
中嶋康年
「寝煙草の危険」はアルゼンチンの女性作家マリアーナ・エンリケスの短編集で2018年の「MY BESTS」で5位につけた「わたしたちが火の中で失くしたもの」の著者の第一短篇集。第二短篇集の「わたしたち…」が英訳され世界的に名が知られることになったので、この第一短篇集も陽の目を見ることになった。本人はロックファンであり、ファッションもロックバンドTシャツやシルバーアクセサリーが好みということもあり「文学界のロックスター」と呼ばれたり、作風がホラー寄りなので「ホラープリンセス」と称されたりしている。
「寝煙草の危険」は今年の5月、国書刊行会発行で、今どき珍しい穴の開いた函入り、表紙はベルベットのような触感で銀の箔押しと相当凝っている。お値段もそれなりで、税込4180円。Kindleの電子書籍なら2500円だけど訳者のツイッターによると、紙版は今、品薄で重版がかかっているということなので売れ行きはよさそう。
表題作は7ページほどの短い作品で、そのモチーフとなっているのは表紙のイラストになっている「蛾」である。ある晩、パウラが焦げ臭さに目を覚ました。まず部屋のなかを見回ったが異常がなかったので外へ出てみると、近所のアパートの火事だった。管理人の話を聞くとそのアパートの6階に住む老婆が寝煙草をして出火したらしい。自分のアパートには延焼しそうもないので部屋に戻ったパウラはベッドの上でシーツをかぶって煙草に火をつけた。その中に電気スタンドを入れたり、シーツに煙草で穴をあけたりしていると、小さな蛾が入ってきたので、煙を吹き付けたりしていたら死んでしまった。この作品にはあまりホラー要素はないが、老いた自分への不安が伝わってくる。エンリケスは1973年ブエノスアイレス生まれ。今年で50歳だから、まだそれほどに年齢ではないのに。
ホラー色が強いのは、最初の短編「ちっちゃな天使を掘り返す」。裏庭を掘り返していたら小さな骨が出てきた。父は取り合わなかったが、おばあちゃんはそれは幼くして亡くなった自分の妹の骨だと言って泣き叫んだ。その時から私には他人に見えないゾンビの小さな女の子がつきまとうようになった。
「ショッピングカート」ある日ショッピングカートを押した身なりの汚い老人が道を歩いていたが、路上で粗相をしたりしていたので、住民が彼を邪険に扱うと、近所で事件や災難が起きるようになった。
呪術師が登場する「湧水池の聖母」「井戸」、本物のセックスには興味は持てないが、心臓の音に魅入られてしまい“心音フェチ”になってしまう女性の話「どこにあるの、心臓」、圧巻は本書中最長60ページの「戻ってくる子供たち」1970年代後半から80年代前半にかけてアルゼンチンの軍事政権下で起きた市民に対する拉致監禁事件を題材にした中編で、死んだはずの虚ろな子供が街に大量に溢れ返る。その他「悲しみの大通り」「展望塔」「肉」「誕生日でも洗礼式でもなく」「わたしたちが死者と話していた時」の全12編。
読売新聞での池澤春菜氏の書評には「人生には何度か、読むことで自分が変わる本との出会いがある…/…自分が言葉で塗り変わっていく、書き換えられていくような、鳥肌立つ経験。ああ、出会ってしまった、という諦念にも似た気持ち」とある。
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